カテゴリー「風景・物語」の9件の記事

2012年8月13日 (月)

ぜんぶ。


海が素敵なのは、海のあるところには海以外に何もないからだ。
海がなければたくさんのものにあふれているはずの広い場所が、ぜんぶ、海ひとつのぶんだからだ。

夜が素敵なのも、きっと同じ理由だ。

2012年7月27日 (金)

物語について

唯一絶対の意味(価値?)を信じる思想と、「意味なんてない、あらゆるものは無価値だ」、という思想は私には同じものにみえる。
そこには<自分用のもの>がない。という点で。
なんだか楽しくないし、落ち着かない。
モダンとかポストモダンとかその次とか、理屈はわかるけどあんまり興味がわかない。

そういうのと関係なく、楽しく生きるために<物語>を創ろうと思う。
物語は思想じゃない。だから世界にいくつあってもいいし、日によって変わってもいい。重複しててもいい。矛盾したり統合できたりしてもいい。
統合できるけどしなくても、別にいい。ひとりで維持することもできるし、誰かと一緒に持っててもいい。ひとりでいくつも持っててもいい。合計何個までとか先着順とかいう制限もない。会員制でもないし定員もないし。誰がどんな風に作ってもいい。


世界に位置を占めるのにこういう方法がある、というのはとても心強いことだ。誰の席だって、やり方次第でいくらでも創りだせるのだ。

2003年2月 5日 (水)

なかったはずの風景

テレビで紹介されてたある絵描きさんの話。
彼女はパステルで似顔絵を描いている。
ふんわりやわらかいタッチの、素敵な似顔絵を描いている。
似顔絵描きのひとって路上でときどき見かけるけれど、
彼女は本人ではなくあずかった写真を見ながら描く。
だから、別々に撮った二枚のスナップ写真を見ながらふたりが一緒にいるところを描いたり、風景の写真を別に用意して、実際には本人が行かなかった背景の中においたりすることができる。
すごい人気で、現在は注文がうけつけられない状態だとか。
たしかに、とても素敵な作品ばかりだ。

「どんな注文が多いんですか?」
と尋ねられて、答えた彼女の言葉はとてもショッキングだった。

「わたしもおどろいたんですけど、コジンです。」

へ?似顔絵って、集団で申し込むものなの?
と一瞬思ったくらい、予想もしない答だった。わかった瞬間どきっとした。
「個人」じゃない。「故人」だ・・・。

一緒のショットが一枚も残ってない家族の写真、生まれてからずっと病院にいてそのまま亡くなってしまった赤ちゃんの写真、公園や遊園地に一度も連れて行ってあげられなかった子供の写真を持ってくるひとたちがたくさんたくさんいるという。
一緒にいるところを描いて欲しいと言われるという。
素敵な風景の中にいるところを描いて欲しいと言われるという。

私は「写真」にずっと興味があって、撮るのも見るのも大好きだった。
好きな写真はいつまででも見ているし、見るたびにどきどきする。
写真というのは「今はないけれど、かつて確かにそこに在ったもの」、そして、とてつもなくおおきなもの、を最小限の大きさに封じ込めて所有する手段だと思っていた。「かつてそこにあった風景」というものに、ものすごく惹かれる。
それは今でも変わらない。
だけど。
はじめて、「写真」ではなく、「絵」のことを考えた。
わたしたちは、「今はどこにもないし、かつてもどこにもなかったもの」を所有することだってできるのだ。
否。描かれてそこにある以上、逆算すればそれは<存在した>風景なのだ。
なかったはずであろうが、あり得ないといわれようが、そんなこととは無関係に、それはたしかに存在した風景なのだ。

ことばについて考えるときは「それこそがフィクション(物語)」の機能じゃない。」と当たり前に思っていたことなのに、なんでビジュアルの話になるとこんなにショッキングなのか、不思議でしょうがないんだけど、この絵描きさんの話に私はとても動揺した。

そんなわけで。
最近、「絵」のことを考えている。

2002年5月 5日 (日)

風景はどこにあるのか

2s

「窓の外」の風景を写すのが好きで、旅行に行くといつも、ホテルの窓から写真を撮る。最近気づいたんだけれど、そこには必ず、窓枠が一緒に写っている。
どうやら私が写したいのは窓の「外」ではなく、「窓の外」らしい。


無意識にやっていたけど、私にとって、これはとっても重要なことだった。

<ことば>、とか<作品>とかいうものは、窓枠のようなものかもしれない。それを挟んで、そこにはいつも「ふたつの場所」が出現する。
「ここ」と「向こう」、「見る場所」と「見られる場所」、「わたし」と「世界」。
何気なくこんな風に言ってみながらも、これらの言葉が猛烈に誤解を招く言葉であることを意識せざるを得ない。異質な対象が共存するとき、ひとはしばしばそれらを「比較」しようとするからだ。比較され、差異を認識されることでしか、異質なもの同士は共存できないと考えるのだ。

そういう考え方が生産的なときもある。
「比較」することで、世界はいくつかのグループに分類することができるようになる。
「わたしたち」という概念も、「競争」という概念も、その副産物だと思う。

だけど、そういう風に考えなくてもいいときもある。

世界がひとつの窓枠によって完全にふたつに分けられる時,
「ふたつの場所」は、窓枠を挟むことによって断絶したりしない。
窓枠は、ふたつの場所を分断し、相互に不可知な別個の場所として遠ざけるためのものではなく、ふたつの異質な場所が同時に自らを保証する共通の輪郭線になる。互いに不可侵なまま極限まで遠ざけることで(!)ひとつになるのだ。「向こう」を見ている「ここ」は、「向こう」を見ることのできる唯一の場所として「向こう」と等価であり、輪郭線を共有する者として同一なのだ。
1本の線の「内側」と「外側」の差異を求めることに、どれほどの意味があるだろうか?
1本の線の上では、こちら側であることはすなわち向こう側である。

「私が私であること」で、「世界は世界になる」。
「ここがここであること」で、「向こうは向こうになる」。

その世界観には「わたしたち」という概念はない。
世界はいつも、「わたし」と「わたし以外のぜんぶ」に分けられる。
「完全に異質なふたつのもの」だけが、分類からも競争からも自由に共存することができる。「向こう」は「ここ」になるし、「ここ」は「向こう」になる。「わたし」は「世界」になるし、「世界」は「私」になる。私について限定することは世界を無制限に肯定することだし、世界を眺めることは私が存在するということだ。
「わからない」ということは世界を否定することではない。
何か(外側)について「わからない」ということはその何かでない何か(内側)について「わかる」ということであり、そこ(内側)から「わからないもの」(外側)のすべてを肯定するということなのだ。

******

風景は対象として向こう側に存在するのか、それを見ている「私」の中にあるのか・・・という問題は、未だ(というかたぶん永遠に)解決の着かない哲学の命題なんだろうけれど、わたしは個人的には後者のイメージを持っている。
誰かが何かを「素敵だな」と思いながら一緒にいるとき、その「素敵なもの」は、見ている方のひとのものなのだと思う。<そのひとの外部>に広がっているという点に於いて。
重要なのは内側ではなく外側なのだ。
「素敵なものを見ることのできる場所」に居たいと思う。「ここはどこなのか?」「わたしは誰なのか?」ではなく、「ここから何が見えるのか?」ということが気になる。「そのひとはどういうひとなのか」ということよりも、「そのひとには世界がどんな風に見えているのか」ということの方が気になる。

       *****************
 

2002年4月26日 (金)

夕方と私  

記憶の中の夕方はどれもよく似てる。

あのときのあの夕方も。
あのときのあの夕方も。
あのときのあの夕方も。

実は同じ町の風景じゃないのかと思うほど、なにか決定的に同じものがあって。
それはきっと夕方の風景にとってとても肝心な何かなのだ。

最近。日が長くなってきたので夕方はだいたい外を歩いてる。
夕方を歩くのは楽しい。
子供の頃から好きだったので夕方の記憶はたくさんある。
状況は全部違う。

あの町の夕方だったり。
あの日の夕方だったり。
あのひととの夕方だったり

季節も時代も場所も違う。

だけども何か決定的に同じものがある。それが何なのかずっとわからない。
夕方がそういう風に夕方であるための、肝心な何か。

夕方の時間。
時間の粒子が少しずつ荒くなり、どんなものにも影が差して。
町がゆっくり立体になる。
時間と場所の距離は天文学的に遠い。
近づこうとすれば残酷なほどよそよそしく、遠ざかるためには際限なく優しい時間。


決定的に同じものは何?
空の色?影の方向?光の射す角度?地球の軸の角度?
…わからないけど、何しかそういう類のものだと思っていた。

**********
夕方の時間。
時間の粒子が少しずつ荒くなり、どんなものにも影が差して。
町がゆっくり立体になる…。
少しずつ起きあがっていく町を歩いていて、今日、ふと思った。
決定的に同じものは風景の中ではなくて、風景からいつも等しく遠いところにあったのかもしれない…。

私は、私の見た夕方しか見たことがなかった。

2002年4月 2日 (火)

人事の及ぶところについて、祈ってはいけない

なにかが解決していく、その過程を描いたものがなんだか苦手だ。
そこに物語を見るのがどうしても嫌なのだ。

物語というのは、何かが解決していく過程にではなく、何かが解決し終わったあとに生まれる(残る)ものだと私はきっと思っている。誰が何をどうしようとも、もうどうしようもなくそこに残ってしまうもの。
具体的に解決できることは意外とたくさんあって、目の前のひとつからとりあえず手をつけていけば、けっこう片づいてしまうもののような気がする。解決不能に思えることのほとんどは、やってみればなんとかなるものだと思っている。
情緒的に全体を俯瞰するのはそれからでいい。どんなに効率よく、どんなに巧みにダイナミックに解決を図っても、それでも残ってしまうものは絶対にある。
どうにかすれば最終的にはどうにかなることをはじめはどうにかしないでおいて、それがどうにかなるまでの間を描いたものを物語と呼ぶことにどうにも興味が持てない。どうにかすればどうにかなることを、ドラマのためにわざわざ小出しにせんでも、だったらはじめからどうにかすればいいじゃん、と思ってしまう。

そんな具合だから。
「どうしようもないこと」にばっかり興味が向く。問題は、これから手をつけるものの中にではなく、手を尽くした後に残るものの中にあるような気がして。

・・と以前、制作の打ち合わせの時に言ったら、制作の中村くんに、
「・・どうしようもないことって・・・・それはたとえば秋が冬になるようなことですか・・?」
と言われた。・・・暴力的な例のようだけど、でも、それでも、そう。
「で、でも・・それは・・そうなのか・・・?」
と中村君は頭を抱えていた。

どこで聞いたのか忘れたんだけど、素敵な言葉がある。
<人事の及ぶところについて、祈ってはいけない。>
私は、物語というのは、「祈ること・そしてその方法のこと」だと思ってるのかもしれない・・。

2002年3月 9日 (土)

風の記憶

何年も前の夏。
北海道夕張の喫茶店で海の写真を見た。
とても奇妙な海の風景だった。
なにもかもがあまりに均等で、なにかがこのうえなく不自然だった。
誰がどこから見てるのか全くわからない風景だった。
誰かがレンズの向こう側にいてこの風景を見ているのだということが
全く想像もできないような風景だった。

きっとそこはそういう場所なのだ、と思った。
誰からもどこからも見られていない、どこからも断絶された場所。
それが写真に「撮られて」そこに在るということはとんでもないことだった。

一連の写真には「風の記憶」というタイトルがついていた。
そうか。風なのか。と思った。
これは、風が見た風景だ。
風が、通り過ぎざまに自らに焼き付けて、そのまま持ち去った風景・・・の記録。
誰も知らないところでひっそりと記録された、どこからも等しく遠くにある風景。
笑えてくるくらい、孤独な風景だった。

だけどこれを確かに見て、レンズを通して確かに紙に焼き付けた人がいる・・。
それはどういうことなんだろうか、と思った。
気になって仕方がないので、そのまま、その写真家のひとに会いに行った。
会ったらびっくりした。全く反対の意味で奇妙なひとだった。

喫茶店のマスターに教えてもらったギャラリーを訪ねるとご自宅がギャラリーを兼ねていて、
「ご自由にお入り下さい。」と張り紙が張ってあった。
やまねこ拝、って感じだった。

床には作品がランダムに並べてあり(つまりばらまいてあり)、あちこちに意味の分からない標語や注意書きが張ってあり、やぶれた窓ガラスがガムテープと模造紙で修理してあった。家具は何にもなかった。
庭には大きなブランコがあり、ブランコの上には小さなテントが張ってあった。
家よりもそちらの方に生活感があった。

しばらく待っていると、迷彩服にサングラスの男の人が帰ってきた。

そのひとが風だった。
写真家の、風間健介さんだった。

その日はたまたま私たち以外にもはじめての来客があって。
4人で朝まで焼酎を飲んだ。
風間さんはものすごい大きさのボトルから焼酎をどんどんついでどんどん飲んだ。
大きな声で、切ない思い出話をたくさん話してくれた。
貧乏と失恋の話をたくさん話してくれた。
大きな草食動物のようなひとだった。

いったいどうしてこんなひとがこんな写真を撮るのか・・・

風間健介さんはつまり、そういうひとだった。

風景に纏わるいちばん具体的な想い出。
そのときもらった海の写真は今も私の部屋の壁にある。

http://kazama2.sakura.ne.jp/

2002年2月 7日 (木)

ホッパーの風景

エドワード・ホッパーという画家がいる。
空っぽの風景ばっかり描いたひと。
このひとの絵にはひとがいない。
たまに居ても、それは<どこかの誰か>であって、「あなた」や「わたし」や「あのひと」じゃない。ホッパーが描くとなんでも「風景」になる。

ホッパーがエッセイか何かに書いていた。
「わたしはひとのいない建物を書くのが好きで、挿し絵(広告?)によく建物の絵を描いた。ディレクターは大変いい絵だと誉めてくれたあと、決まって<この窓から外を見ているひと>を描きたしてほしいとつけ加えるのだった。とてもがっかりした。私が描きたいのは建物であって建物から外を見ているひとではないのだ。」

ホッパーの気持ちはよくわかる。
人の居ない絵が私も好き。
絵の中にひとが居るとき、その風景はそのひとのものだ。
わたしは絵の中のそのひとを通してしか、その場所を見、その場所に立つことはできない。

空っぽの風景は私のもの。
視点は絵の外にある。
絵のこっち側にある。
わたしはたしかに「ここ」に居て、「ここ」から、この風景を見ている。
ここにいるわたしだけが見ている風景。

そういうものが欲しくて絵を見るのに。
ホッパーも。
そういうものが欲しくて絵を描いたんだろうに。

2002年1月27日 (日)

あの場所のあの子

子供のころ。
童謡がむちゃくちゃ怖かった。
あの感覚。今でもはっきり覚えている。

みんなあたりまえに口にするけど、そんな場所実は誰も知らない。
いつも一緒に遊んでるけど、その子のこと、実は何も知らない。
そんなものばっかりで作られた世界。

そのときそこに在ること以外に何もできない世界。
どこで出会ったのかも覚えてない。
だけどみんながあたりまえのように知っている。

ああいうものは今でも怖い。
でもあこがれる。
そのときそこに在ること以外に何もできない世界。
誰が誰に勝ったって誰からも譲ってもらえない世界。
誰からも、いつもちょうどおんなじだけ遠くにある世界。

♪よいこの住んでるよい町  が いったいどこにあるのか。
♪赤い靴履いてた女の子   は なんていう名前なのか。

今でもわからない。
あのとき知らなかったことは、今でもわからない。
どこからも、いつもちょうどおんなじだけ遠くにある世界。

だけどときどき。
私もそこに居るような気がするときがある。

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