カテゴリー「言葉」の9件の記事

2012年6月23日 (土)

書き言葉と話し言葉

誰かに何か伝えたいとき、直接話すか手紙を書くか考える。

私が思う、話し言葉に対する書き言葉の重要な特徴は、

状況に応じて話を途中で修正できないこと。
読まれるか読まれないかを書き手は決められないこと。

そういうわけで、
書き言葉でなければだめなときがあるのだ。

2002年10月29日 (火)

グローバル

グローバルという言葉は嫌いだ。
グローバル=地球的

「グローバルな視野で物事をとらえよう」とか。

グローバルな視野=地球的視野
グローバルな視野=宇宙人は除いて

言うまでもなく排他的な思想。
排他的であることを表現し、戒め、あるいはそのリスクを引き受ける覚悟を表す言葉かと思いきや、「排他的なことはだめですよ。」と説教するために使う言葉だったりする。

「人間的」という言葉もおんなじ。こっちはさらに排他的。
排他的であることを表現し、戒め、あるいはそのリスクを引き受ける覚悟を表す言葉かと思いきや、こちらもまた違うのだ。

人間は、地球の平和と正義(人間のモラルと幸せ)を守るために戦争する。

2002年10月 8日 (火)

ことば

何かに会ったとき。
昔出会ったままになっていた別の何かが、はじめて形を持ってずんと現れてくることがある。記憶の中の、ずうっと奥の方になんとなく所在なく浮かんでいただけのものに突然輪郭ができて、温度差ができて段差ができて、意味ができる。

目の前で、何か途方もないものが合成される幸福感。絶頂感。
同時にその何万倍もの何かが一瞬にして消えてしまう衝撃的な喪失感。

消えてしまった何かに比べて、残った方の何かは信じられないほど小さくてつつましい。
海を爆破して塩を集めたらこんな感じがするんかな。

今ここで私が出会ったのはどっちだろうかと思う。
消えてしまったほうの何かなのか、合成されたほうの何かなのか。
何かを手に入れたのかそれとも失くしてしまったのか。

新しい何かに出会ってどきどきわくわくしているとき。
いつもそれを考える。考えるとわからなくなる。
悲しいような気もするし、とにかく幸せでたまらないような気もする。

             ***********

用事があって1週間、関東を旅行した。
いろんな場所へ行って、いろんなものを見て、いろんなひとに会って、いろんな話をした。
いろんなことを思った。

だから。ひさしぶりに日記書いてみたりして。

2002年7月 4日 (木)

「かけがえのない」もの  

言葉はいつも、かけがえのないものをかけがえてしまう。
「かけがえのない・・・」という言葉でさえ、あらゆるひとの手に、その「かけがえのなさ」を等しく配ることによって「かけがえのなさ」を根底から破壊する道具になる。
どんなことをしても誰にも渡すことのできないもの、私だけのもの、ここにしかないはずのもの、絶対にほかのもので置き換えることのできないもの、が言葉を媒介にして遠くへ運ばれていくのはしばしばとても悲しい。

言葉を介して寄り添うことによって、孤独は癒される。
だけど、孤独がいつも悲しいとは限らない。
かけがえのないもののかけがえのなさを守るのも「孤独」だったりする。

だから。
たとえば誰かが誰かにとってかけがえのない何かを失くしたとき。
せめてその「かけがえのなさ」を絶対に共有しようとしないでいたいと思ってしまう。
無力さを痛感しつつ、同じ言葉で分かち合えないことを確認し、ただ、黙って通り過ぎることでしか、その「かけがえのなさ」は守れないような気がするから。

             *****

「かけがえのない8人の尊い命」なんていうかけがえのないものは存在しない。
この言葉が絶対に表現し得ないところにしかないはずのものが失われたとき、
この言葉が意味し、共有されるものは、途方もなく悲しい。

2002年4月14日 (日)

 今日あったこと

  今日何があったのか・何をしたのか、言葉にして書き留めるのはとてもむずかしい。
これは日記なので、「今日あったこと」を書いた方がいいんだろうなあと思いながら、ひとにもときどき指摘されたりしながら、未だ達せずにいる。
だけどそもそも、「今日あったこと」を今日記録することに無理があるんじゃないかしらと思ったりもする。

映画を見ている最中にストーリーについて説明するのはきっとずいぶんと難しいに違いない。
どのシーンについて話すべきで、どのシーンについて省略するべきか、何についてどれくらい話すべきか、誰についてそれくらい話すべきか、
「最後まで見ないとわからんでしょう。」
と思うのだ。

生きてる間のことをおわりまで見てから自分で記録することはできないので、「最後」というのは人生のおわりのことじゃない。だけど、24時間ごとに区切られる時間のおわりでもないような気がする。
<今日何があったのか>・・想い出して言葉にしようと思ってもなかなかできない。
だけど、ずいぶん時間がたってから突然想い出したりする。
今日あった「そのこと」が終わるのは今日のおわりではなく、そのときのような気がする。

おんなじできごとを何度も想い出すこともある。
全然違った言葉を使って想い出すこともある。
1回だけ起こる出来事だけど、何回でも終わることができる。
いろんな形で終わることができる。

だから、そのたびにいろんな言葉で記録すればいいんじゃないかと。

2002年1月22日 (火)

 「私たちにはことばしかないのです。」

昔、身体的ハンディキャップを抱えたひとの団体のチラシでこんなコピーを見ました。
「私たちには<ことば>しかないのです。」

<ことば>に不信感を持ち始めた頃だったので、強烈なショックを受けました。
中学時代お世話になった先生に言われた言葉と一緒によく想い出します。

「感情的で脆い人間ほど論理的に言葉にする力を身につけなければいけない。」

内側から溢れてくる混沌の大波から自分を守るために。
必要なときはフェアな方法で誰かに助けを求めることができるように。

2000年12月27日 (水)

「他者」について考えてみました。  

作品を批評する時に「他者」という言葉をよく聞くけど…。意味がよくわからない。

私の創る物語の中に「他者」はいない。
「他者のようなもの」を創るのがどうしても嫌なので創らない。
自分の言葉で絶対に語れないものを「他者」というのだと思ってる。

「他者」はいつも外側にいる。
内側には絶対にいないし、外側には絶対にいる。

自分の言葉で「自分の輪郭」を正確に語りたいなと思う。
自分の輪郭がはっきりしないと自分の外側になにがあるのかわからないから。
自分の輪郭は、自分の言葉でしか創れないから。

自分の輪郭をきっちり閉じて内側について考えるとき、はじめてその外側にある「自分には想像も及ばない世界」を意識することが出来る。
「他者」とコミュニケーションする、というのはそういうことだと私は思ってる。

2000年10月16日 (月)

ことばの意味

昨日の稽古の時。言葉の意味と音の話が出た。音と意味はそんなに別のものかなあと私は思ってて。言葉の意味って、状況によって違うし。使う人によって違うし。受け取るひとによって違う。おんなじように、音によっても違うような気がする。音の違う言葉はやっぱり意味も違う。「ねこ」と「にゃんこ」では意味が違うし、「わたし」と「わたくし」では意味が違うし、「こっち」と「こちら」は意味が違う。「ご飯」と「ライス」でも意味が違う。「そうだよ。」と「そうなの。」も意味がS違う。私にとっては言葉の意味というのはそういうものなんだけど、それって意味の定義が違うのかな?

2000年10月12日 (木)

日記のこと

このページを創ることになったとき。毎日日記をつけてみることにした。日記というのはそういうものだと思ったから。
小学生のとき以来。宿題以外で書いたことがないので、続けることがどれくらい大変なのか、やってみないと分からない。もしかしたらすごく楽しいのかも知れない。毎日がおんなじで、書くことがなくなったらどうすればいいんだろう。とても書けないようなものすごいできごとがおこった時はどうすればいいんだろう。
日記に書いておいたらいいことって何だろう?

少し前。物置を整理していて小学校1年のときの絵日記を見つけた。読んでみて仰天した。内容も文体も書き方も、今の自分ととあまりにそっくりだったから。やってることも見てるものもたいして変わらなかった。
描かれている風景を意外と覚えていることにも驚いた。これはあのブラウス。これはあの鉛筆削り。これはあのピアニカ。これはあの滑り台。
-子供の頃の記憶。-子供の頃の記録。

予想に反して。その日記の中にみつけたものは遠くに置いてきてしまった過去の私ではなく、今ここにいるのと同じ私だった。
でもこれは日記がそういうものなのか、私が成長のない人間なのか、どっちの証明なのかわからない。

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