カテゴリー「本・映画・ドラマ」の15件の記事

2012年9月 4日 (火)

20パーセント増量。

コメンタリーとか、アフタートークとかどうも苦手で。
小説のあとがきで、作品の成立について作者がいろいろ書いてるのも苦手。
映画もお芝居も小説も好きなんだけど、本編と別におまけがついてると、
どっちに集中すればいいのかわからなくなって、見るのが面倒になってしまう。DVDの特典映像とかも、あんまり見ない。

作者の意図とか制作過程とか、背景とか、基本的には興味がない。
すごく興味をひかれるものも中にはあるけど、それは興味をひかれる理由がきっと、その作品か創り手の中にあるのだ。
そのときは、見た後に自分でいろいろ探すのが楽しい。最初から、「知りたいでしょ?この作品をより深く楽しむには・・・」と言われるとげんなりする。

その作品だけ、一人で「勝手に」見たり聞いたりしたいのだ。
正解があるような感じがするとものすごく嫌なのだ。
私が正しく鑑賞しないと誰かに迷惑がかかりますか?と思う。
かからないものを「作品」というんでしょと思ってしまう。

作家本人が作品と並行して語る言葉というのがどうにもしっくりこない。
言いたいことがあるなら全部入れたものを創ればいいじゃないかと思ってしまう。全部入ってないのなら、じゃあ、その作品は何なんだ?と思ってしまう。その解説付きで見る人となしで見る人との関係はどうなるのだ?と思ってしまう。

この気持は、20パーセント増量のクリープの詰め替え袋を買ってしまったときの納得いかなさに少し似ている。多い方がいいかもしれないけど、でも、もとのびんには100パーセントしか入らないのだから、20パーセントは袋に入れたまま輪ゴムでとめて冷蔵庫にしまわなくてはいけないのだ。これが意外と面倒くさい。クリ―プも情報も、多い方がお得だと云われればそんな気もするけど、なんか納得いかない気持でいつも輪ゴムを探すのだ。
全然違うような気もするけど、他に適切なたとえが浮かばないので。

私は昔からそう思ってるんだけど、あまり多数派の意見ではないみたいで、コメンタリーもアフタートークも作家本人の解説も、ますます充実してきているような気がする。

単に嗜好の問題なのかもしれない。

美術館や博物館で、展示物の横にある白い四角いボードを読む人はしっかり読むし、最近では音声ガイドのサービスを利用するひともいる。
私はほとんど読まないし聞かない。

学ぶのが嫌いなだけかもしれない。

公演のパンフレットに作演出家の言葉、とか書くのも嫌で、書いたことがない。それくらいはサービスで書けばと言われるけど、クリープの袋に輪ゴムをかけている自分のことを思い浮かべるとできなくなる。それがすごく良いことだとは思わないけど、なんだかしっくりこなくて。

でも、このあいだもっとすごい人に会った。
公演終了後に観客と演者が作品を批評し合う場を設けている企画に参加したお客さん。「合評会は失礼します。歌声喫茶みたいで苦手なので。ひとりで酒を飲みながら舞台のことを思い出したいと思います。」と言ってさくっと帰って行かれた。「おお。」と思った。


楽しめるコンテンツが増えるのは悪いことじゃない。
創り手や紹介者が、作品について論理的に説明する言葉を持っていることも、悪いことでじゃないと思う。その方が、背景を異にする社会に紹介するのが容易になると思うから。ただ、なんだかうまく言えない理由でこの流行についていけない人ももしかしたらいるかもしれなくて、そういうひとが「自分だけじゃないんだ」と思ってほっとするといいなと思って書いてみた。なんかうまくまとまらないんだけど。

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スサンネ・ビア というデンマーク出身の女性の映画監督がいる。こっくりした作品を創る人で、映像もとても奇麗で私は彼女の作品がとても好きだった。手に入る限り全部見て、でもそんなにたくさんないのですぐ見終わってしまって、あるとき、ふとDVDの付録についていた監督インタビューを見てしまった。後悔した。なんて感じの悪い、なんてつまらないことばかり話すひとなんだと思った。見てる間に腹が立ってきた。映画はこんなに素敵なのに。あのインタビューは少なくとも、制作サイドでカットするべきだったんじゃないかと思った。できないんだろうか。監督だから?監督ってなんなんだ?監督というのは映画の「中」を創るひとなんじゃないのか。それ以来、いっそう用心深くなった。面白かったときほど、付録に用心してしまう。

信じられないほどつまらなかったときの方が逆に、ちょっと付録の方も見てみようかなと思ったりする。解説やインタビューも同じような感じだと、なるほどと腑に落ちてすっきりしたりするので。

困るのは、解説やインタビューは抜群に面白いのに作品に全く魅力を感じない組み合わせに出会ったとき。見てはいけないものを見てしまったような、どうしたらいいのかわからない気持になる。

2012年6月10日 (日)

SFとかファンタジーのこと

「幼年期の終わり」という小説を図書館でかりて読んだ。
SFの有名な古典で、レビューを観ると「最後で涙が止まらなかった」と「衝撃的なラスト」とか、気になる言葉が並んでいたから。

SFとかファンタジー小説がどうも苦手だ。いや、興味は人一倍あるんだけど。しかも、「きっと好きでしょう」とよくひとからも勧めてもらうんだけど。

科学をテーマにした物語なんて、すごく素敵で面白いと思うし、ファンタジー小説も題名を見てるだけでわくわくする。なのに、なぜだか入り込めないで途中でしんどくなることが多い。物語の過程で覚えなくてはいけない概念がいろいろあって、新出単語もいろいろあって、面倒くさくなって途中で断念してしまうのだ。
「幼年期の終わり」も、「衝撃の結末」に涙したくてがんばって読んだのだけど、残念ながらあんまりピンと来なかった。悔しい。

このあいだは「アバター」という評判の映画もわくわくしながらDVD見たんだけど、途中で挫折してしまった。昔見た「マトリックス」は途中で飽きて、画面を横目にご飯作って食べて後片付けしていて、ストーリーがわからないまま終わった。創った人とファンのひとに申し訳ない。「ハリーポッター」「ナルニア国物語」は食わず嫌いでまだ挑戦していない。見てみたら面白いのかもしれないんだけど、意欲?がわかない。

最近見たSF映画で好きだったのは(今思いつくのは)、
・トゥルーマン・ショー
・メン・イン・ブラック
・ある日どこかで
・シザーハンズ

覚えることがあんまりない作品だからか?
あるいは、宇宙とか別の世界とかが苦手なんだろうか?

2008年10月 9日 (木)

「オウエンのために祈りを」

「なんにでも理由がある。」という考え方が私はとても好き。
もしかしたら言葉や論理ではなかなか説明できなかったりするかもしれないけれど、でも、確かにあるのだ。あると思いたい。よさそうなのが見当たらないなら作ればいいと思う。

「理由なんか無い、そういうものなんだ」

という言葉には説得力を感じない。

「ほんとうに大切なことには理由なんかないんだよね。」

とか、言われるとなんだか嫌な気持ちになる。
でも、その「嫌な気持ち」がうまく説明できない。

唯一無二の答を求めてるのとは違うのだ。
理由はいくつあったっていいし、万人が納得する事実に裏打ちされてなくたってかまわないとおもう。物語というのはそもそも、事実とが科学とか社会とかの制約をとりあえずおいといて、とにかく何が何でも「理由を説明する」ために発明されたものなんだとおもうし。

「理由なんか」という暴言に比べれば、その理由がほんとうなのか嘘なのかなんて、どうでもいい違いのような気さえする。


ジョン=アーヴィングの小説が好きで、読み始めたら一気に最後まで読んでしまう。絶対に、途中でやめられない。だけど彼の小説はものすごく大きくて重い。内容が、じゃなくて、本が重い。本が大きくてかさばる。持ち歩くのがたいへんだし、寝転んで何時間も読んでると腕が上がらなくなったりする。時間と体力に余裕がないとなかなか読み始められない。読むとものすごく疲れる。だけど、だいたいの小説やら映画やらお芝居は「長すぎる」と私は思うのだけれど、このひとの小説だけは、「長すぎる」と思ったことがない。必要なことが全部書かれるのに必要な長さだと思うから。

「演劇は誰のためにあるのか」という議論をよく聞くけれど、そして、それはたいてい「1観客のため」「2創り手のため」の2択から選ぶことになっていたりするんだけれど、私はいつも、「登場人物のためでしょう」と思っている。彼の小説は、全くそんなふうに作られているので、読んでいてとてもとても気持ちがいいのだ。

なんといっても、登場人物が生まれた瞬間(受精した瞬間からというのもある)から詳細に書き始め、死ぬまで責任を持って描き続ける。何もないところにどかんと物語がつくられて、おしまいになったら跡形も無くきれいに撤収される。ほんとうに気持ちがいい。
なにもなかったはずなのに、跡形も無くなるはずなのに、物語の間だけそこに存在するくせに、すべてのものにちゃんと理由がある。

「オウエンのために祈りを」は、中でも群を抜いておもいっきり、そのことを描いた物語だ。身体や家庭環境にハンディキャップをもつ主人公のオウエンは、「僕がこういう風に生まれてきたことには理由があるはずだ」と信じている。悲しい事件の当事者になっても、やっぱり「これには理由があるはずだ」と信じている。そして、その理由を知りたいと思っている。「理由なんかない」と先生も両親も思っている。だけど、オウエンはオウエンの人生を生きているので、そういうわけにはいかないのだ。彼は想像力と妄想力と、知識と行動力と、あらゆるものを総動員して、彼のいちばん知りたいことを知るために生きる。

自分が自分である理由を過去に求めるのはなんだか詮無いなと思うのだけれど、それを未来に求める生き方は生産的で魅力的だ。この先明らかにされるに違いないそれ、を知るために彼は生きている。「理由はある」のだから、過去になかったものは未来にあるはずなのだ。
彼が友達の半分くらいの大きさしかなくて、人間とは思えないような奇妙で甲高い声をしていることの理由。不幸な少年時代を送ることになった理由。

ものすごく大きくて重い本には、オウエンが「自分が生まれてきた理由を見届けるために」行ってきたたくさんのことが描かれている。オウエンは何があってもあきらめずにたくさんのたくさんのことをする。だからこの物語は例によってものすごく長くなっている。
ものすごく長いこの物語は、最後に「オウエンが生まれてきた理由」をすっかり余すところなく説明して終わる。オウエンがオウエンでなければならないこと疑うことなく信じ、絶対にあるはずの「その理由」を探し続けた結果、彼は彼の最も望んでいたものを手に入れるのだ。オウエンの悪あがきのように見えた荒唐無稽な人生は、一転して、彼が彼である理由を説明する物語に変わる。すとん、と胸のすく結末が用意されている。

それは他人にとってはとんでもなく「非現実的」で「観念的」で「正気の沙汰とは思えない」しかも「悲惨な」物語なのだけれど、オウエンにとっては何よりも確実で何よりもなくてはならない理由だった。

オウエンが自らに与えられたものを疎ましく思い、「もっと希望に満ちた理由のある」自分を求めて行動したりしたなら、とてもつまらないものになっただろうと思う。小説も、オウエンの人生も。でも、オウエンは自分に起きたどんな理不尽なことにも悩んだり迷ったり後悔したり反省したりしない。諦念というのは実は圧倒的に生産的なものだったりするのかもしれない。

「オウエンのために祈りを」はきっと、壮絶な悲劇なのだろうけれど、でもなぜだか悲しみというよりは切ないけれどきっちりとした優しさに満ちている。「なんにでも理由がある」というのはそういうことなのだと思う。

でも、きっとそれだけじゃなくて。
オウエンは小説の登場人物なので、オウエンのために祈ることのできるひとたちがいる。

語り手のジョンと、アーヴィングと読者だ。

そのことが、とても重要なことのような気がする。

2008年8月31日 (日)

クライングゲーム

という映画を(DVDで)見た。
どういう勘違いか、私はこれを最後に大どんでん返しのあるサスペンス映画だと思って借りてきたのだけれど、そういうのじゃなかった。
さえない語り手は実は犯人ではなく、誰も実は幽霊ではなく、死んだはずの人はちゃんと死んだまま生き返ることも無かった。緻密に計算されつくした背景が全貌を現わすこともなかった。ただ、そのまんま見ているしかない映画だということに気づいたときには、すでに分類不可能な世界に放り込まれてしまっていた。物語は登場人物の行動するままにどこまでもずるずると進んでいく。

物語を動かすのは思想でも構成でもなく、登場人物の性格と事情なのだった。みんながとんでもなく個人的な事情を抱えていて、だから各々が「だってそうするしかないもんだから・・・」という方向に、物語をずるずる引きずって動くので、彼らの人間関係や物語の展開を既存の言葉で説明しようとするとすぐについていけなくなる。

恋愛の定義、同士の定義、友情の定義、運命の定義、というようなものを描く作品があるとしたら(たくさんあるような気がする)、これはその対極にある作品だ。普遍化できない「個人的な事情」とそこから生まれる普遍化できない人間関係を描いた作品だ。
「個人的な事情の前には思想や世界観などなんぼのもんでもない」ということがとっても軽やかに描かれる。思想や世界観や人間関係を定義するためのとてもステレオタイプな構図がいくつも用意されているのだけれど、物語はそれらを端からきれいに無効にしていく。この世にふたつとない人間関係が生まれて、だんだん輪郭を持ち始めて、あわや何かになろうとするところとで物語は違うところへごろんと転がる。その繰り返し。

見てるほうは、「いいのか?それで?」
と思うんだけど、きっと、いいとか悪いとかではないのだろう。

登場人物がみんなほんとうに魅力的。
交わされる会話がまたとてもシンプルで素敵だ。
説明しようのないことばかり伝えようとするからなのか??

結局、わけわからないまま連れて行かれたところで映画は終了したのだけれど、見終わって、なんだかちょっとすっきり気持ちよかった。

2008年8月 1日 (金)

泣いてないで探しに行けよ。

私はあかおにさんが嫌いだ。
「泣いた赤鬼」(浜田廣介作)の主人公のあかおにさんのことだ。
なんにもしてないくせにちゃっかり主人公におさまってるところが大嫌いだ。

何故この物語はここで終わるのか??

いまや、あかおにさんには、あおおにさんの名誉を回復することができるはずなのだ。彼が得た幸せな環境をふたりで共有することもできるはずなのだ。
それができるのはあかおにさんだけなのだ。
あかおにさんがしなければ、他の誰にもできないのだ。

なんにもしないで最後まで泣くな。
「親友を失ったかわいそうな自分のために」泣くな。
村の人にちゃんと説明しろ、と思う。
あかおにさんの話を、村の人はきっと聞いてくれる。
あおおにさんがそうしてくれたから。
もし聞いてもらえなかったら聞いてくれるようになるまで自分自身で信頼を築けよ、と思う。聞いてもらえるまで説明しろよ、と思う。

あおおにさんにもらったものをなぜ独り占めするのか。
ぐずぐずうだうだしてるだけの彼一人では絶対に得られなかった幸せを、なぜ、あおおにさんに還元しようと思わないのか?
自分だけにできることがはっきりとあるのに、なぜ、無力さを装って最後まで泣いてるのか。

何もかも失ったのは君じゃなくてあおおにさんだ。
かけがえのない親友の好意をなぜ、どこまでも自分の人生の脇役に利用するのか。

こんなおには嫌いだ。

泣いてないで、おいしいお茶とおいしいお菓子をもって、早くあおおにさんを探しに行け、と思う。

この物語が終わる前に。

2008年7月17日 (木)

インコとにわとりと夕凪

このサイトを作ってから、ここを通じて知り合った人が何人もいる。
また、ゲストブックでおすすめ作品を紹介してくださる方もいる。

こうの史代さんという漫画家さんの作品も、以前ここで教えて頂いた。

小鳥好きな方が「インコ漫画の決定版」があると掲示板でささやくので、気になってさっそく買って読んだ。「ぴっぴら帳」は、たしかに「インコ漫画の決定版」だった。インコ漫画というジャンルがあるのかどうか知らないけれど、この作品ひとつでそのジャンルを成立させても良い、という意味で、まさしく決定版だった。文芸の世界ではよく、「人間が描けている」とか「女性が描けている」とかいわれたりするのだけれど、私にはいまいち意味がよくわからなかった。でも、この作品を読んでわかったような気がした。「インコが描けている」作品なのだった。インコが描けている作品があるのだから、人間が書けている作品があってもおかしくない。

インコがほんとうに魅力的なのだ。

インコが魅力的であるということは、インコが魅力的に存在する風景があるということであり、そこには人間もいれば犬もいる。鳥かごや商店街や町もある。インコをとりまくそれらのものたちが、別にインコのために存在しているわけではない、という感じがとても素敵だ。ぴっぴらさんという名前のインコが主役のインコ漫画なのだけれど、でも、インコ以外のものがインコを引き立たせるためにあるのではなく、ぴっぴらさんもまたぴっぴらさん以外のものを魅力的に存在させるために必要不可欠な登場鳥?になっている。

なんだろう?このつつましやかな共犯関係。

気になるので、この作者の作品をぜんぶ探して集めた。

次に読んだのは「こっこさん」。
これはにわとり漫画の決定版だった。
わたしはおおきいいきものが好きなので、個人的にはこっちの方が気に入ってしまった。こっこさんはにわとりなのによく空を見る。外で飼われているので風の中にしっかり立って空を見ている風景が、インコ漫画より多かったところもポイントだったのかもしれない。

それから「さんさん録」「長い道」「夕凪の街、桜の国」を読んだ。
書かれた時系列を知らないのだけれど、後に行くほど作品の中に風が吹いている。「夕凪の街、桜の国」は強烈だ。この本の中には、ページを手でめくる必要などないのではないかと思えるほどの風が吹いている。正確にいうと、「夕凪」は風が止まることなのだから、「風が吹かない時間の話」ということになるのだけれど、こんなに風の吹いている物語を私は読んだことがなかった。

なんといっても、風の止まる時間に名前をつけるような街なのだ。
そんな街を名前にするような作品なのだ。

こうの史代さんはとても不思議な絵を描く。
「手仕事の凄み」というものが世の中にはあるのだ、ということが、彼女の絵を見るとわかる。洗練されていない、とか、規格におさまっていない、とか、のびのびと自由に描いている、とか、フリーハンドの味わい、とか、そんなことばで表現するのでは追いつかない。

「こういう風景なのでこういう風に描きましたよ」と絵が言っている。

描くっていうのはそういうことなんだなあと思う。

私が特にこの作品についていろいろいいたくなるのは、たぶん、このあいだ、この漫画を原作にした映画を見たからだと思う。(インコやにわとりは映画になってないので、見ることができない。「さんさん録」は映画になったら見てみたいなと思う)とても原作に忠実につくってあって、役者さんも素敵で、きれいで素敵な映画だった。何も不満はないのだけれど(少しだけあるけど。)、でも、驚いた。

映画の「夕凪の街、桜の国」とは比べ物にならないほど、漫画の「夕凪の街、桜の国」には風が吹いてたのだ。

「風」を表現するのに映画ほど有利な媒体はないと思っていた。そしてたしかにこの映画には気持ちよく風が吹いていた。ほんものの風が、木々をゆらし、空へ抜けていった。だけど、にもかかわらず、それでも、いや、だからこそ、動くはずのない「絵」の中に吹く風の凄さにぞっとした。

このひとの絵には何があるのだろう。
それは、絵の中にあるのだろうか?物語の中にあるのだろうか?

「夕凪の街、桜の国」は、流れていく時間と、その中にいつまでも止まり続けてけっして流れない瞬間の物語だ。その物語に風の吹き抜けていく絵がどれほど重要であるかということを、ひしひしと感じた。

2005年9月25日 (日)

タイトルは内緒。

安直な結末でいいです!
つまんないとか文句言いません!
ひねりのないストーリーでかまいません!
救いようのない陳腐な作品であっても、ぜんぜん、オーケーです!

ですから。どうか。お願いします・・・!!

と。手足をばたばたしながらテレビドラマとかビデオ(映画)とか見ていることがあります。ばたばたしても仕方がないので、静かに目を閉じて祈ったりもします。騒ごうが静かにしようが、実は物語のこっち側でわたしひとりが何をどうしてもどうしようもないわけですが、どうにも落ち着かなくて。

見ているうちに、その、主人公が、登場人物が、その世界が、その場所が、自分にとって、なぜだかとってもとっても大切なものに思えてくることがあって。その大切さの前には、もう、ストーリーの面白さ、とか、作品の質とか、完成度、とか、そんなものは、もうほんとにどうでもよくなってしまって。

おねがいです。どんなに理不尽な展開になってもかまいません。どうかひどいことしないでください。

誰にだかわからないけど、とにかく祈ります。祈ったからどうなるものでもないのですが。

誰かの作った物語をこんな気持ちで見ているとき、きっとそれは私にとって心地よい、大切な世界なのだと思います。その大切なものが、<たかが物語の進行><たかが作品の完成度>という避けられない事態によって破壊されていくことにどうにも我慢ができなくなるのです。理不尽なのはわかってます。鑑賞する態度としてなにかが間違ってるような気もします。でも、どうにもこうにも我慢できなくなってしまう・・・。

安直なハッピーエンドの何が悪い?
陳腐な結末だと誰か困るのっ?!

と喧嘩腰にすらなってきて。しかも、誰と喧嘩すればいいのかわからないし。

「このひとたち(登場人物のひとたち)を不幸にしてまで必要な作品の質ってなんなんだ?そんなものがいったい何に有益なんだ?」と、真剣に悩んでしまう。もちろん。創ってる人は、そこで、ストーリーをこうひねりたくなる・・・かもしれない。そこで、さっきの伏線を生かして、展開をああしてこうしてそうしたい・・・・かもしれない。そこで、すべてを丸く治めてハッピーエンド、だなんて、ストーリーの構成上ありえない、と思うかもしれない。「ひねりのきいたストーリー」、「巧みな構成」、「意表をつく展開」「しゃれたストーリー」、「人間社会をリアルに描く」、「現実は綺麗ごとじゃすまない」・・・・ということが大切なのかもしれない。かもしれないけど、だから何なんだ。と思ってしまう私・・・。

観客の私にとって大事なのは描かれているその世界であって、そこで生きてるひとたちであって。そもそも、描いてるひとの事情なんか知らないし。
勝手なのかしら?いや、勝手なんだろう。どう考えても。
と思うので、思っても口に出さないように(できるだけ)していたのです。

ところが先日。
私の理不尽な祈りが完璧に聞き届けらるという奇跡的な経験をしてしまいました。例によって。私はばたばたしながら、祈りながら、<その>映画を見ていました。

おねがいです。どんなに理不尽な展開になってもかまいません。どうかこの物語を心地よく終わらせてください。

そして。聞き届けられるはずのない理不尽な要求に現実がかなわないのを見届けるため(!)覚悟を決めて薄目を開けて息を沈めて、画面の前に座っていたのです。

そうしたら。なんということでしょう。
信じられないほどの力技で、私の望みは叶えられてしまったのです。目の前で。

<その>映画は、あらゆる合理や整合性や、おそらくSF映画としての完成度さえもすべて投げ打って、ただひとつの目的だけを達成するために創られた強烈な映画でした。物語の暗黙の了解や前提や整合性や、そういう類のものを全部とっぱらって、「やってしまった」映画なのでした。あちこちぼろがあって、ストーリーが破綻してて、矛盾してて、もしかしたらとてつもなく陳腐で安易な、<ハッピーエンド>。

この映画は果たして良作といえるのか?ふとそんなことも気になりましたが、どうでもいいやと思いました。良作であるための条件を片っ端からかなぐりすてて、なりふり構わず「幸せ」であることを全うした作品なのかもしれませんが、だから何だというのでしょう(とそのとき私は思いました)。

こんなことってあるんだ。ありなんだ・・・。
ありなんですよ。だって、あったんですもん。
しばらく呆然としておりました。
そして、気持ちの中の、まだ使ったことのない自分でも知らなかった部分で、なんだかとても贅沢な、幸せな気持ちになりました。

この奇跡はどうやって起きたのでしょうか。
いったい誰がこんなことを?
---こんなことができるのは創り手だけです。
こんなことをできるのが創り手だったのです。すべてを放棄すれば、こんなことさえできてしまうのが創り手なのです。そして、この創り手はそのことをとてもよく知っているのです。
なんだかわけのわからない感動で胸がいっぱいになりました。
物語を作るっていうことは、こんなにも、ものすごいことだったんですね。

その映画を創った人を私は「評価」することができません。
評価なんかできません。「感謝」してるんですから。
但し。これが創り手と観客の理想的な関係なのかどうかと言われれば・・・・
・・・・・・・・・・・・う~ん。どうなんでしょうね。

2005年8月12日 (金)

皇帝ペンギンという生き方

映画館で、「皇帝ペンギン」を見てきました。

上映開始時間を聞くために映画館に電話をかけたのですが、
「邦画は07、洋画は06をダイヤルしてください」
と言われて悩みました。
南極は・・・・・・・・・・洋なのか?
結論は、フランスで作製された作品なので「洋画」ということでした。

スクリーンいっぱいに広がる白い大陸と青い海。
長い長い列を連ねて何日もかけて海と住居を往復する黒い群れ。毎年、ただひたすらそれを繰り返す。どっかのさるのように芋を洗うようになったりもせず、何の変化もないまま長い長い長い時間を越えて世代を紡いでいくペンギンたち。信じられないような効率の悪い人生。

こ、これはいわゆるスローライフという奴なんでしょうか??

何度も、気づくと口をあけたまま、画面に見入っていました。

私も決して要領のよい方ではないけれど、あれはひどい。ひどすぎる・・。
寒くて、一年のほとんどを雪と氷にとじこめられていて、
食べ物が海にしかなくて。でも、海の近くでは子育てができなくて。集団で(!)単身赴任するペンギンたち・・。不自由な環境でみんなが各々自分のことしかしないから、不器用なペンギンは卵を壊すし、方向音痴なペンギンは道に迷って生き倒れになる。他のペンギンは知らん顔。協力してやれよ。

いいのかそれで?
他の生き物たちが南極から去っていったのに、
なんの疑問も抱かないのか?
なんとかしようと思わないのか?
文明を築けとは言わないけれど、引っ越さないなら少しは便利にしようとか思ったりしないのか?生き物として、ここまで効率の悪い、無駄の多い生き方というのは、いったい・・・・・ありなのか????!

海から何日もかかるところで卵を孵すなら、お魚を冷凍輸送して保管しようとか、みんなで協力してバケツリレー方式にしてみようか、とか、班分けして、仕事(魚とり)と子育てを分担制にしてみてはどうだろうとか、考えたりしないのか?

海から遠く離れたところに住宅地を作って、家族から1匹ずつ、何日もかかって海まで魚をとりに言って。めんどうだと思わないのか?
考えられる最もめんどうな環境で、最も効率の悪い方法で絶対に進化することもなくだらだらと生きていく理由はいったい何なんだ???


         **************

でも。ただひたすらに美しい背景を前にただひたすらに繰り返される、ただひたすらに効率の悪いドラマを延々と見ているうちに、なんだかちょっと違う気分になってきました。
「繰り返されている」つまり、

皇帝ペンギンは滅びてないのです。

彼らよりずっと快適な環境で生きている生き物たちが次々と絶滅していく中、意外と何の保護も必要とせず、マイペースだけど着実に繁栄している・・。人間の環境破壊でたくさんの生き物が絶滅したり、ペースを崩されて困ったりしている一方で、彼らは着々と子孫を繁栄させている。彼らの巣を破壊してマンションが建ったりしないし、大気汚染にさらされる心配もないからです。

あそこまで不便なところで不便に暮らしているからこそ得られる、彼らだけの特権。
・・・・・・・・・・・・もしや賢いのか?皇帝ペンギン・・。
快適な場所で暮らすためには、他の生き物と共存しなくてはいけません。他の生き物と競争しなくてはいけません。けれども、他の生き物が誰も住みたがらない不便な土地で暮らす彼らには、そういうことを考える必要がない。ただ自分たちのことだけ、考えて生きていけばいい。変化も協調もしなくていい。しなくても生きていけるからしないのですね。

ペンギンが壮絶な不自由と引き換えに得たものは、実は、途方もなく贅沢で豊かな環境なのかもしれません。価値観はさまざまですから、彼らにとって他の何よりも、競争と共存と変化がめんどうなのだとしたら、あれほど快適な生き方はないはずです。そう考えれば納得できます。永い永い時間、「予想もしない危機」にみまわれたりすることなく、同じ日々を淡々と生きてきたわけです。ちょっとうらやましいかも・・・。

では、「地球の温暖化」というのは、彼らにとってはじめての、「予想もしなかった危機」だったりするのでしょうか?南極の氷がとけはじめたとき、はじめての<変化>が起こるのでしょうか?

・・・・・・・・・おこらないような気がします。
彼らは淡々と、同じように同じ営みを繰り返しながら、静かに音もなく滅びていくような気がします。誰の助けも求めず、何の危機感も抱かず、不運を嘆くこともなく、ただ、繰り返し繰り返し行われてきたことを繰り返しながら・・・。生き物の終わり方として、それはなんだかとても美しく、完璧なものであるような気がします。悔しいくらいに。

2004年11月22日 (月)

無事に戻ってくること。

「宇宙への旅」という言葉で想起されるもの・・・。

「人類の夢」「ロマン」「科学の可能性」「遠くへの希望と憧れ」・・・
私は遠くにあるものがとても好きだし、宇宙がとても好きだし、「科学」という言葉に大きな魅力を感じる。
だけど。そういうものをロマンチックにおおらかに享受することができない。
私にとってのそれは、絶対的な緊張感を伴う、なんというか、もっときりきりと微妙で繊細な「何か」なのだ。

特にそんなこと、気にかけてもいなかったのだけれど、
「月のひつじ」という映画を見て気づかされた。
ちょっと、くらっとした。

それは人類が月面着陸する日の物語。
月面からの映像を受信した、小さな村の大きなパラポラアンテナの物語。
科学は成功と豊かさと可能性の象徴としておおらかに描かれていた。
世界中のひとたちが、その成功を享受した。
人類が月面着陸する、その瞬間を、多くの人たちが目を輝かせて見ていた。
宇宙に対する根本的な世界観の違いを目の当たりにして戸惑った。
戸惑ってしまう自分にショックを受けた。
35年前の現実は、私にはSF映画の中の未来の世界のように見えたので。


<こんな風に、宇宙を見上げる人が、「かつて」、いたのだ・・・・。>
<私は「まだ」その中にはいなかった。>
そして、
<「今ではもう」、人々はそんな風に宇宙を見上げたりはしない。>
う~ん。この奇妙な感情は何だろう?
私は・・・・・・・・悔しいんだろうか?


         **********

子供のころ、私がリアルタイムで見た「宇宙への旅」は、そういうのじゃなかった。だって、あのロケットは、爆音と炎に包まれて木っ端微塵に吹き飛んでいった。スローモーションで何度も繰り返す鮮明な映像が記憶の底にある。
世界中が希望と期待いっぱいで見守る中、あのロケットは旅立ったきり二度と帰ってこなかった。
そういう時代に、私は大人になった。

宇宙へ行くことができるロケットは宇宙へ行くことができずに二度と帰ってこないこともある、ということを人々が知ってしまってから、私は大人になった。

私よりずっとずっと昔の時代に空を見ていたひとたちが、まったく反対の記憶を持っている。彼らが宇宙への原風景として持っているのは、不鮮明で無彩色で、だけど安心と豊かさと希望だけを圧倒的なスケールで伝えてくる映像の記憶なのだ。映画の中の人々は、そのロケットが月へ行けないかもしれない、なんて考えたりしない。とても無邪気に、過去の栄光と未来の可能性を信じていた。

だけど。
理不尽だけれど不合理じゃない。
この順序は、実は、矛盾しない。
失敗に先立ってあるのはいつだって成功の記憶なのだ。
きっと。

成功だけが想定される時代に宇宙を見上げることができなかった者が生涯見あげることのできない宇宙が、映画では素朴に淡々と描かれていた。
それに、・・・・・・・・・くらくらした。

           ************

だけど、こんな風にも考える。
いつの時代にも、<その先>を知っているひとはいたのだ。
そのひとたちが、怯え、祈り、覚悟することで世界は大きくなってきたのだ。
熱く見上げるだけでは、ロケットは月へは届かないのだ。

小さな村の女の子に、
「(月について)そんなに何もかもわかっているのなら、何しに行くの?」
と聞かれて科学者は答える。
「ひとつだけ、わかっていないことがある。それは、『本当に行くことができるのかということだよ。』」

月での実験の可能性をわくわくしながら模索するひとびとに、宇宙飛行士はつれない返事をする。いらだつインタビュアーは尋ねる。
「では、今回のプロジェクトにおいて、あなたのいちばん大切な役割は何なんですか?」
「無事にもどってくることだ。」

当時はきっとレトリカルに響いただろうその言葉の意味をみんなが理解するのは、何十年も先のことだ。そして、「今ではもう」、人々はだれも、その台詞を気の利いたユーモアだとは思わない。


翻って思う。
今、世界のどこかで誰かが怯え、祈り、覚悟を決めていることがあるのかもしれない。世界は「まだ」、ロマンチックに素朴に大らかに、その「成功」を信じている・・・。
此処もまた、ノスタルジックなSF映画の世界だったりするのかもしれない・・。

2002年5月 9日 (木)

アリスのお姉さんのこと

「不思議の国のアリス」という物語がある。
ウイットに富んで、きれいで自由で、登場人物もみんな魅力的で・・もう大好きな物語。
子供の頃から好きだった。

子供の頃、この絵本がうちにあって、くりかえし読んだ。
幼かった私が、いちばん気になった登場人物はアリスのお姉さんだった。
絵本の中の表情まで思い出せる。
私が読んだ絵本では、アリスはお姉さんと一緒に野原へお散歩にゆく。
不思議の国での出来事は、お姉さんが木陰で読書をしている間、うとうとと眠ってしまったアリスが見た夢の中の物語、ということになっていた。(原作はどうなのかしらない。)
アリスが、童話史上に残るあれだけの冒険をしている間、隣で本を読んでいたお姉さんの存在というのが子供心にとても気になったのだ。
アリスが目を覚ますと、夕方になっていて、お姉さんは読んでいた本をぱたんと閉じて、
「さあ、帰りましょう。」
とか言うのだ。
恰好いい!と思った。
わたしは、不思議の国もほしいけどお姉さんも欲しいと思った。
アリスにもなりたいけど、お姉さんにもなりたいとおもった。

そのときの自分の気持ちを、今でも覚えているし、今でも理解できる。
わからないのは、こういう気持って、どういう種類の気持なんでしょう?ということ。
最近ちょっときっかけがあって。
そんなことを思い出している。

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