カテゴリー「思ったこと」の81件の記事

2014年1月 3日 (金)

洗濯物の分別の仕方について。

学生時代、「批評」(と呼ばれるもの)は(なぜだか)「一顧だに値しない廉価版の論理体系」であるかのように教わった。哲学科に在籍していたので、<アリストテレスから脈々と続く思想の流れや背景を知らずに狭い知識と感性の範囲で諸々論じることになんの価値があるのか(いや、無い)>いうことのようだった。

若い頃って、現代批評やら美術批評やらにちょっと興味あるし、共感した文章をがんがん引用して卒論を書いたら、<問題外>と問答無用で却下された。(哲学の文献から引用のない論文は無効」とか。)

そのままでは卒業できないので文献を集めて最初から全部書き直したんだけど、<哲学の知識なく論じられたものは個人の感想に過ぎない。個人の感想には意味がない>という考え方には納得しかねるとこっそり思った。「我こそは世の中の背景を知っている」と息巻く同じクラスの(偏見だけど特に男子)学生の言葉はどれも同じで魅力を感じられず、「意味がないのは<個人>ではなく<あなた>なのではありませんか?」と思っていた。統括するまで黙っているとか正確に調べて引用するとかいう才能のいる世界なのだと思った。意味はない、とは私は思わないけど、「それは哲学ではない」というならまあ、そうなんだろうと思った。で、哲学はやめた。

創作というのはその点すごく楽だった。引用しなくても怒られないところがとてもよかった。(なので、後に、戯曲に嘘八百書いた架空の本やら格言やらについて、「引用元が明記されていない」と注意されたことに心底驚いた。だまされた気分だった。)


以来、「すべてを統括的に把握できる知識のない者は語るな」という考え方は、根強くあるのは知ってるし、それが評価される世界があることも知ってるけど、私は横目で見てスルーすることにしている。単純に、みんなおんなじこと言うからいちいち聴く意味がないからだ。おなじ内容なら、淘汰された魅力的な批評家の本を読んだ方がいい。<正当な>意見を何度も聞くより正しいのも間違ってるのもいろいろ聞く方が楽しい。

面白いのは、私の記憶の中で「問題外」と却下されていた「批評」(と呼ばれるもの)も、また自らを世の中の背景や変遷を統括的に語れる指標だと認識していることだった。そして、それ以外のものを「一顧だに値しないと却下」することだった。「芸術批評の流れを知らずに個人の感想を述べることなど無意味である」と断言しつつ、「自分には哲学の知識は全くない」と同時に言うひとの話を聞いて「おお。」と思った

みんなそうなのかもしれない。魚に詳しいけど洗濯物に疎い人、家事全般を体系立てて語れるけど哲学の知識のないひと、古今東西の哲学の知識はあるけど芸術全般に興味のないひと、芸術批評を体系立てて語れるけど野鳥のことを何も知らないひと…。みんながそれぞれ、「我こそは世界の全体像を把握している」と思いながらそうでないひとの話を却下してるのだとしたら…^^;
世界はなんて立体的にできているのか…。

     ****

これは、あれだ。洗濯物の話と同じだ。

小学生の頃、お昼のラジオで、主婦が料理やら家事やらのやり方についてあれこれ意見を戦わせるコーナーがあった。大人になったら賢い主婦になろうと思っていた私は、その奥様番組を熱心に聴いていた

その日のテーマは「洗濯物の分別」についてだった。「洗濯物を分類せずにぜんぶ一緒に洗うなどあり得ない」というのが、番組にはがきを寄せた主婦たちの意見だった。その点ではみな、一致していたような気がする。
ただ、ある人は「上に着るものと下着とは一緒に洗えない。絶対に分けて洗わなければ」と言い、あるひとは「色物と白いものは絶対に分けなければならない」といい、あるひとは「外で汚れるものと食卓なとで清潔に使いたいものとは一緒に洗うわけにはいかない」といい、…もっといろいろあったけど、とにかく皆、<絶対に守らなければならないその分け方>が違うのだった。

色物と白い物を分ける人は上着と下着を分けて洗わないわけだし、上着と下着を分けるひとは外のものと中の物の区別には関心がないわけだし、外と中でわけるひとは色物かどうかは気にしないということで…。

最後まで聞いて、小学五年生だった私は、

「洗濯物は分けなくていい」という結論に至った。

実際、洗濯物を分けずに洗う大人になってしまったのだけれど、今のところ特に困ったことは起こってない。それが道理だからなのか、洗濯機の性能がよくなったからなのかはわからないけど。

なので。

「価値観の違いなんてきれい事だ。それは知識の有無に過ぎない」という意見を聞くと、私はいつも洗濯物のことを思うのだ。
そして、受理されなかった卒論のことをちょっとだけ思い出すのだ。

関係ないかもしれないけど。なんか、関係あるような気がして。

2013年7月13日 (土)

完全に分るまで次に進まない。こと。

この間見たお芝居に、「完全に分るまで次に進まないでじっくり学ぶ。」という方法で36年かけて高校2年の課程まで進んだ男性が出てきた。
物語の主旨はどうかわからないけど、

「うんうん。本当はそれが正しい学び方だよね」

という風には私は受け取れなかった。
その考え方はとても傲慢で悲しいと思った。

<何をどう学んでも、自分には常に「知らないこと」があるのだ。世界は自分の知識より絶対に大きいのだ>という感覚が身につかないまま大人になる怖さ…。

そして、それは絶望的に不幸なことだと思ったのだ。

2012年10月28日 (日)

バターを落とすことの悲しみについて。たぶん。

ドロップドバター

という言葉があるのかないのか・・・・。

落としたバターにまつわる定理。

インターネットの相談掲示板で、男性が相談事を書いているのを目にしました。
夕食の前に冷蔵庫からバターを取り出そうとした奥さまが手を滑らせて、バターを塊ごと床に逆さに落としてしまったのだそうです。奥さまは床でぐしゃっとつぶれているバターの塊を見て号泣ししまい、何を云っても泣きやまず、どうしたのかと聞いてもただ、「わからない・・」とつぶやくばかり・・・。彼女の気持ちがわかるひといますか
私はどうすればよかったのでしょう?
というような内容でした。

バターを塊ごと床に?真っ逆さまに?

読んでいるだけで鳥肌が立ってきて、ぞくぞくしました。
うわ。それは悲しいだろう。号泣もするだろう。その気持ちはそうそうおさまらないだろう。理由なんか聞かれても答えられないだろう。
それはそうだろう。かわいそうに・・・。


当然、「バターを落とすということはそういうことではありませんか。」
という回答が寄せられるものと思っていました。が、先を読んで呆然としました。

その相談には、読んだ人からのコメントがたくさん、つけられていました。
主に既婚の女性からでした。
「バターが原因のはずがないじゃないですか。ずっとため込んでいたものがあったんですよ。」
「鈍いですね。奥さまがストレスをためているのに気付かなかったのですか?」
「バターはきっかけに過ぎません。原因は別のところに。」
「奥さまの状態は普通ではありません。もしかして妊娠初期ではないですか?」
などなど。

ひとつとして、
「バターを落とすというのはそういうことではありませんか。」
という回答がないことに動揺しました。

自分だったらどうだろうと考えてみました。
そばに誰かいたら、号泣、は、しないかもしれない。
何かしている最中だったり、お客様がいたり、急いでいたりしたら、とりあえず感情は横に避けて、バターを片づけるだろう。でも、生きた心地が戻ってくるには少なくとも数時間の時間が必要だろう。心臓はドキドキしてとまらず、世界が停止したかのような緊張感と世の中を理解するのに使っていたあらゆる規則や規律が吹っ飛んでしまった恐怖感、
、とりとめのなさ、何がなんだかわからない悲しみ、は号泣するのでなければ振り払うのに相当な工夫と労力がいるような気がしました。

もし、自分の家の中で、そこにいるのが自分と夫だけで、特に急いで何かをしなければならない状況でないならば、手っ取り早い方法として号泣するか茫然自失になって完全に静止するか、どちらかだろうと思いました。

そして、それは、あくまで「バターを落とした」ことに対する感情であって、
そのほかのことに対する感情ではないのです。

その質問者の男性は、仕方なく、バターを拾って手際よく掃除をしたのだそうです。
泣いている奥さまは放っておいて。

彼女にとって、それはこの上なくありがたい対応だったろうなと私は思いました。

バターを落として号泣しているときに一番してほしいことは、そのバターを拾って片づけてもらうことです。叱られたり「早く掃除しなさい」と言われても当然の場面ですが、
もしそんなときにすぐさま黙ってバターを拾って掃除してくれる男性がいたら、それはもう結婚してしまうだろうと思います。この奥様はとても幸せだなと思いました。

彼女の内面を想像してストレスを推し量ることには私はあまり意味を感じません。
彼女が号泣したのは、バターを塊ごと床に落としたからです。
あの質感と重量がコントロール不能のところへふいに移動して次の瞬間、床にべちっと落ちるんです。自分で制御できない重力の移動と言うのはそれだけで猛烈な恐怖感をあおります。(ジェットコースターで落下するときのあの感じとかもそうだと思います。)

そして、そのちょっとした生理的な隙をつかれて思わぬ事故が起きてしまったときのとりかえしのつかなさといったら・・・・。
居心地の悪さ、気持ち悪さ。焦りと後悔。
しかも目の前に歴然とある、不始末の結果は自分がなんとかしなければ、消えることな永遠に目の前にあり続けるのです。内面にのパニックが目に見えるところにあふれだしたかのようなどうしようもなさ。
ちょっとの間ちょっと何かを我慢すれば起こらなかったはずなのに、そのちょっとがうまくいかなかったために引き起こしてしまった目の前の出来事の後始末をつけなければならないむなしさ。やりきれなさ。
今思いつく、いちばん近い現象は、「失禁した」ときのそれではないかと思います。

2,3日、落としたバターのことを考えながら過ごし、もう一度その掲示板を見てみました。コメントの数はどんどん増えているようでした。そしてその多くが、奥さんの心身の健康を心配するものと男性の鈍さを指摘するものでした。

はっとしました。

もしかして・・・・。

バターを落とすということは実はそういうことではないのかもしれない、と思ったのです。

バターを落として号泣する人間は実際、病んでいる。
という可能性に初めて、思い当たったのです。

そうすると。
上に私が延々乏しい語彙を総動員して説明しようとしたことは、バターを落とす
ことの悲しみついてではなく、バターを落として号泣している人間の病んだ思考についてだということになります。私は自分の情緒不安定について実証していたことになります。
どうしたものか。

考えてみましたがいい案が浮かびません。

そういうわけで、このことについてこれ以上考えるのはやめることにしました。
誰かに話して共感を求めることも、とりあえずやめることにしました。

だけど、書いてしまったものをどうしたものかと考えた時、こちらはとりあえず日記にUPしておこうと普通に思いました。

今回に限らず。日記というのは、いえ、言葉というものは総じてそういうものであるのじゃないかと思ったからです。そこで説明されていることが、果たして、「バターを落とすことの悲しみについて」なのか、「バターを落とすことの悲しみを正当化しようとする人間の歪み」についてなのか、誰にもわかりません。分らなくても読めるのです。
ということは、両方書いてあることになります。

日記というのは、きっと、そういうものなんです。
そしてそれはおそらく、日記だけではなく・・・・。

2012年10月 1日 (月)

ビーム君のビーム


私の部屋に、小さいロボットの人形があります。
ロボット好きのひとからプレゼントにいただいたものです。
パソコンをたたいていて、ふと顔をあげると目が合います。

目が合ったとき、彼はいつもこちらに向けてビームしています。
なので、ビーム君と呼んでいます。

ビーム君はいつも熱心に仕事をしています。
こちらに向かって放出されるビームが目に見えるようです。

が、彼が何のために、何に向かってビームを発しているのか、誰にもわからないのです。彼のビームには破壊力が感じられませんので、なんらかの平和目的の光線なのだと思うのですが、特に何かの役に立つようにも感じられません。しかも、目的の場所(というものがあるならば)に届いているようにも見えないのです。15㎝くらいで力尽きて落下しているような気がします。

実際に何もできないだけでなく、何かできるようにすら全く見えないロボットというのは、なんともいえない違和感があります。ロボットというのは、「何かの役に立つ」ためにああいう形をしているのだと思うからです。

ビーム君は、ちゃんと、ロボットに見えます。
でも、いわゆるロボットの役目を果たしているようにはけっして見えないのです。目が合うと、つい考えてしまいます。
「彼はいったい、何をするロボットなんだろう。」
そういう意味では、違和感というより存在感があると言えます。

では、いわゆるロボットの役割とは何なのかと考えてみると、これがよくわからないのです。わかるはずがありません。私はロボットを作ったこともないし、ロボットを使ったこともないし、ロボットを使いたいと思ったことさえないからです。
それなのにきっと心のどこでロボットに何かを期待しているのです。
私だけでなく、誰もがロボットに対して何かを期待しているような気がします。

いったい何を?

きっと、人間にはできないあらゆることを。
ロボットというのは、人間にはできないことを叶えてくれるものの象徴なのだと思います。

実用的なロボットはある特定の何かを叶えるために作られているので、実際に「何か」を叶える役割をはたすのですが、ビーム君のような非実用的なロボットは、誰の何を叶えればいいのかそもそも明白ではないため、「何かを叶えてくれる」という希望だけを象徴してビームしているのです。

なんの役に立つのかさっぱりわからないビームを一生懸命放っているビーム君を見ると、ふっと身体の力が抜けます。話しかけたくなったりもします。
でも、忙しそうなので邪魔しないようにしています。

何の役にもたってないんじゃないかと思うと、慰めたくなったりもします。
P1450511


でも、一生懸命なので、邪魔しないようにしています。

ですけども。

ビーム君のビームの先にあるもののことを考えるとちょっと楽しい気持ちになります。誰も思いつかないような目的を叶えるためのビームがあって、それを一生懸命放出しているロボットがいる、ということは、なんとも心強く、愉快なことのような気がするのです。

2012年9月 3日 (月)

洋服屋さんの謎

街の中や外を散歩するのも、お店を見て回るのも好きなんだけど、
でもだいたいのものを私は通販で買う。
特に洋服はほとんど。
お店のひとと話すのが苦手なのだ。

お店が仕入れて並べてくれているものを買うかどうかもわからないのに見せてもらってるんだから、最低限、礼儀も会話も必要だと思ってる。
でも、あれは会話なんだろうか?

何を疎通したくて話しかけるのかさっぱりわからない。

「こちら、色違いになります」
「こちら、ブラックになります。」
「こちら、スカートになります。」

何を答えればいいのだろう。

「そうでしょうね。」と言えばいいのか。、
「ええっ?!ほんとうですか?」と驚けばいいのか。
「なりませんね。」と否定してみればいいのか。

どう答えても不条理劇になる。

それに。必需品じゃないものを、楽しみで眺めて、選んでるときって、リラックスモードで放心状態になりませんか?(私だけ?)
突然話しかけられると突然引き戻されたような(どこからだろう?)
びっくりして、息が止まりそうになる。すごく健康に悪い。
いつどこから話しかけられるかと思うとドキドキしてゆっくりできないのです。

CDの試聴してるときとか、書店で本を選んでるときとかに
「こちら、AKBの新曲になります。」とか
「こちら、上巻になります。」とか
「この作者、人気なんです~。私も別のシリーズを持ってるんですよっ!」
とか、後ろから声かけないと思うんです。

なぜ洋服屋さんの台詞はあんなに変なんでしょう。

2012年6月10日 (日)

手がかり

なんか疎外感を感じた時は、さらっとやり過ごさず、すかさず立ち止まって考えてみるようにしようと思う。疎外感は、ネガティブな心境にあってもキャッチすることのできる希少な手がかりだから。

自分がどこに<いないのか><いたくないのか>について考えることは、きっと重要なことだと思うから。

2012年6月 9日 (土)

仁義

嘘つきには嘘つきの仁義がある。
自分が語っていないことを無断借用しないことだ。
必要なものは全部自分で用意する。
嘘の話のなかでは、ついた嘘だけがすべてなのだ。
「だってほんとのことだから。」は、絶対に言い訳にならないのだ。

2012年1月15日 (日)

何かが起こって。

何かが起こって、それからずいぶん時間がたって、世界の中でのその何かの割合が少しずつ小さくなって、見通しがよくなってきて、そして、ある日、別の何かが起きる。

そのとき。

あのとき何かが起きたのだったということを、ふと思う。
そのときはじめて思う。

それが何だったのかということを考える。

だから、
あのときの何かが要するに何だったのかということは、実は、その別の何かのほうが決定してるのだと思う。別の何かがもっと別の何かだったりしたら、あのとき起きたのも、もっと別の何かだったのだろうと思う。

何かが起こっただけでは、何も決められない。
でも、何かが起こった時、その何かが大きければ大きいほど、それ以外に起こる余地がないわけだから、何かが起こっただけの状態は続く。
その間、何が起こったのかを知る手だてがない状態が長く続く。

その状態は、とても重要な状態のような気がする。

別の何かはいつ起きるのか、どの何かがその別の何かなのかということの答えは、そのときの<手だてのなさ>から仕方なく生まれてくるような気がしている。

そう、<仕方なく>というのがしっくりくる。


最近、そんなことをよく考える。

2011年10月21日 (金)

大きさについて。

小さいなと思う。自分は。
どうしようもなく、小さい。
考えないようにしてるけど、とにかく小さい。
小さすぎる。つまりちっとも大きくない。

考えないようにするのはやめて、大きさについて考えてみた。
大きさについて考えると深刻な気持ちになる。
きっと、
自分が絶対に太刀打ちできないものが何なのかわかるから。
何を得られずに生きてきたのかわかるような気がするから。
そしてそれはおそらく挽回不可能だから。

いちにち、そういうことをぼんやり考えていた。
自省的な日記を書こうと思ってPCに向かった。

書き始めてふと思った。
大きいのも力だけど強いのも力だな。

強くないかどうかまだわからない。
とにかく、遠くまで行ったら勝ちなのだ。
まだ時間がある。

強度を上げてみよう。

・・・・・・・・・・さて、どうやって?

2011年8月11日 (木)

「私は、唄うことしかできません。

だから、唄います。」

と言って、傷ついたひとのために唄おうとするひとが私は苦手だ。
だから・・・・ってなんだ?

もし、その唄がその場に必要なのなら、そういえばいいと思う。
「あなたには唄が必要です。だから、唄います。」
と言えばいい。
必要じゃないかもしれないけど唄いたいから唄うのなら、別の場所へ移動すればいい。それどころじゃないひとの前で唄うな、と思う。

この台詞をいえば、どんな場所でも当事者になれる。

だけど、
歌うことしかできません、というひとが必要ない場所があるのだ。
唄うか唄わないかが問題にならない場所もあるのだ。

そこには優先的に立つべきひとが最初からいるのだ。
唄うことも話すことも顔を上げることもできなくても、たしかにその場所に優先的に立つべきひとはいつも必ずいるのだ。・・・・いたのだ。

当事者から当事者であることを横取りしないでほしい。

歌うことしかできないのならば、そのひとが静かに自分の物語をみつめている間、何も歌わずに黙ってればいいのにと思う。

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