カテゴリー「演劇」の20件の記事

2014年9月28日 (日)

カラスが飛び込んできた日のこと~缶の階WSの前の話~

缶の階WSの前、会場に1時間早く入った私たちは打ち合わせをかねた雑談をしていた。
どういう流れからだったか、表題の話になった。
「日常の中の劇的な一瞬を切り取って描くのが演劇だ」という話。
K君が、以前本で読んだエピソードについて話してくれた。

小学校の教室を舞台にするとする。
1年365日のうちの大半は、何気なく過ぎていく日常だ。
でも、たとえば、授業中に窓からカラスが飛び込んできた日が一日、あったとする。その一日はクラスにとって劇的な一日だったはず。普段とは違う顔を見せる子がいたり、普段の教室ではおこらなかったできごとが起こったり、普段なら言わないような言葉を交わす子同士がいたり…。それはたしかにそのクラスが内包している物語なのだけど、普段の生活の中では見過ごされてしまうかすかなものが劇的な一瞬を切り取ることで形になって現れる。

演劇とはそういうもの。どの一瞬を切り取るかが作り手の腕なのだ。

というような感じの話。

「久野さんはそうじゃないんですか?」と聞かれて、戸惑った。

そのことに対して特に否定的な考えを持ってるわけじゃない。言ってることもわかるし、そうやって作ったものを批判するつもりもない。でも、なんだか私は腑に落ちない…。なんでだろう。

もし、教室にカラスが飛び込んできた日を題材にして演劇作品を創るのなら、わたしだったらどうするか…。

「私は、たぶん…その日の出来事をセリフや物語にして演劇作品にすることは、しないような気がする…。」

というとK君が、
「あ、カラスが飛び込んできた日の前を描いて、そして、その日は飛ばしてその後のクラスの様子を描くやり方ですね。チェーホフ的とか言われてるやつですか?」

チェーホフ…。

チェーホフさんのことはよく知らないのでそこについて何もコメントできないのが情けないのだけど、いや、そうじゃなくて、そういうことではなくて…

私が<それ>を創るのだったら、たぶん、そんな劇的な瞬間を思い返す誰かの物語にするだろうと思った。

ある日、ふとその日の(カラスが教室に飛び込んできた日の)ことを当時のクラスメイトの前で話題にする。卒業する時かもしれないし、卒業して何年もたったある日のことかもしれない。
あの日は楽しかったね。こんなことやこんなことがあったね。もし、あんなことがなければ〇〇さんとは友達になってなかったかもしれないね。

でも、思ってたような反応は誰からも帰ってこない。
他の誰もそのことを覚えていない。
そんな出来事はなかったという。飛び込んできたのは猫だったじゃないかという人もいる。当の〇〇さんも、自分たちは前の学年のときから仲良くしてたじゃないの、という。目の前に鮮やかによみがえる記憶を誰とも共有できずに戸惑う。

それだけじゃない。そこから始まったはずのあれこれがどれもほんとうはそこから始まったのではなかったとしたら、自分を構成している何もかもが根拠を失うような気がする。ひいては今自分が立っているこの場所、これから向かっていこうとしている先のことさえも後ろ盾をなくして宙に浮く。

もはや、実際にカラスが飛び込んできたのだったかどうかは知るすべがないし、そのこと自体はどうでもいいような気がする。自分はおそらく、たくさんの劇的な瞬間を経て生きてきたのだろう。そして、その劇的な瞬間の劇的さは、とても個人的なもので、自分以外の誰にとっても意味のない劇的さで、けれど自分はけっしてそう思わなかったからこそ、自分にとって劇的な瞬間でありえなのだろう。ということに思いを馳せて窓の外を見る。

Hさんが、「つまり、<劇的な一日>と規定されたところから始めるのでは違う気がする、ということですか?」と言った。

そうかもしれない。
私が描きたいのは、たぶん、たしかにそこにあったものではなく、
あったのかもしれないけどなかったのかもしれない何かなのだと思う。

それが一般に演劇的な考え方なのかどうかわからない。
違うのかもしれない。
わたしにとっての「劇」は、日常を淡く描くことでも<劇的>な一日を切り取ることでもなく、強いていうなら、あるような気がする何かを求めてひとりで彷徨い歩くようなことなのかもしれない。彷徨い歩いて探さないと(探したとしても)どこにあるのかわからない、そもそもあるのかどうかもわからないような、何か。

カラスのことを考えながらぼんやりしていると、そおっとドアが開いて、一人目の参加者の方が入ってこられた。

2012年12月11日 (火)

ちゃぶだいとしろくま

舞台にちゃぶ台があると、嫌な予感がするな・・と思ってた時期がある。
ちゃぶだいが「暗黙の了解」の象徴のように見えたからだ。

舞台中央にちゃぶだい。
誰かが座っている。テレビを見てたり。
「新聞とって。」とか誰かが誰かに言う。
「おはよう。」誰かが入ってくる。

これだけで、このひとたちが同じ家に住んでいて、
おそらく血縁関係があって、今は朝で、みんなが起きてきて、
ここは居間で、食事が始まろうとしていて、毎日同じような時間を
すごしている・・・というようなことがわかることになっている。
誰も何も説明しなくても。

これがちゃぶ台の力だ。

舞台にちゃぶだいがあるのに、以上のことが分からなかったら、おそらく
このあとに続く諸々の出来事についていくことができない。

これがちゃぶだいの力であることは、このちゃぶ台をたとえばしろくまに替えてみれば
すぐにわかる。

舞台中央にしろくま。
誰かが座っている。
この時点ですでに、すわっているのか、じっとしているのか、しゃがんでいるのか、
隠れているのか、なんらかの説明が必要になる。

しろくまの横にテレビがあることにも説明がいる。
そもそも、それがテレビであることがわかるために何らかの説明がいる。
しろくまの隣にある四角い箱がニュースやドラマを放送していること、
に対するなんらかの説明がいる。

しろくまの居るこの場所はどこなのか、
最初に座っているひとは誰で、「おはよう」と入ってきたひととどんな関係があるのか。

登場人物の間に暗黙の了解があるのは仕方がない。そのひとたちは、舞台が始まる前からそこでそうやって生きてるのだから。

でも、客席と舞台との間に暗黙の了解があることに納得がいかない。
しかもそれは、「ちゃぶだい」的価値観を共有している人だけがもつことのできる了解なのだ。


***********

暗黙の了解、について、たまたま昨日、人と話す機会があって。
ふと思い出したので書いてみました。ちゃぶだいのこと。

2012年6月25日 (月)

ゆでたまごとビール。

99年夏、船の階という集団でお芝居をしたとき。
そのうちの1回をモーニング公演にしようと考えた。
朝11時くらいに開演して、受付でゆでたまごを配るのだ。
本番当日の朝にたまごをゆでる時間があるのは演出家しかいないので、
もちろん私がゆでようと思っていた。

とてもいい思いつきだと思った。

劇場の花とかに「祝・公演」と書いたりするところを見ても、公演と言うのはおめでたいことなのだ。お祝い事は午前中に、というのは日本の文化だ。それに、午前開演なら夜だと劇場に行きにくいひとも観劇できるし、午後から別の公演を見に行ったりランチや買い物しにいくこともできる。

とてもいい思いつきだと思った。

チラシに書く前に一応、役者とスタッフに相談した。

なんと、ほとんど全員から猛烈な反対を受けた。
反対しない人も何人かいたけど、そのひとたちはじっと黙っていた。
つまり、誰も賛成しなかった。

「そんなのは変だし嫌だ。」

というのが彼らの意見だった。

「え~?やろうよ。」
と食い下がってみたけど、今度は全員が黙っていた。

誰一人賛成者がいないので、仕方なく断念することにした。
たまごをゆでるだけのひとと朝から舞台に立つひとの意見のどちらを優先すべきかを考えたら、そういうことになった。みんなほっとした顔をしていた。

観劇アンケートにこっそり「朝11時開演の公演があったら見に行こうと思いますか?」という項目を入れた。役者は、「まだあきらめていないのか?」という顔をしていた。330人の観客の中で
「行こうと思う」に○をつけたのはひとりだけだった。惨敗だった。役者は、「そらみたことか。」という顔をしていた。

彼らが強固に反対した一番大きな理由は、11時に舞台に立つために朝起きなければいけない時間を逆算したからだと私は思っている。
お客さんが賛成しなかったのも同じ理由かもしれない。

 *****************

月日は流れ。

あのとき一番強固にモーニング公演に反対した役者は今(午前11時35分)、本番の舞台に立っている。彼は今、東京の劇団にいるのだけど、その劇団の公演が先週末から関西であって、関西公演の千秋楽が今日の11時開演なのだ。最近、モーニング公演をする劇団はちらほらとある。その劇団もときどきふつうに午前開演を行っている。特に問題が起きたという話も聞かない。

友人でもあるその役者の久しぶりの関西公演を見に行った。
悔しいけど事情があって、今日のモーニングではなく昨日のマチネを見た。そのあとで、久しぶりに一緒に飲んだ。いろいろ話せて楽しかったのだけど、その話はまた改めて書くとして、今大事なのはモーニングだ。

お開きの時間になって、「明日の劇場入りは何時・・・?」と何気なく聞きかけて、「あ・・・・・・・。」と気づいて息をのんだ。

ふと友人の顔をみると、彼もこっちを見ていた。

・・・・・・・・・・・覚えてるのか?

私はそのままじいっと顔を見ていた。

「・・・・・・時代が早すぎたんだよ。」
言い訳するように、彼は言った。
今まで覚えてるのもすごいけど、今から言い訳するのもすごいと思った。
「昔は、公演は夜に決まってると思ってたもんだから・・・・。」

12年の時を経た勝利。
いや、だから何だということもないわけだけど。

でも。
みんなが日本酒で盛り上がってる中、彼がビール以外に全く手をつけないことにふと気付いた。

勝ったのは私じゃないなと思った。

2011年12月13日 (火)

忘年会?お疲れ会?お祝い会?

行ってきました。
CTT大阪第11回試演会参加者お疲れ会。

ふわふわのギターさんからは、作演出(出演)の大石英二さんと音響オペの出井さん。モットーなかよくの田中浩之さん、道の階の私と片桐慎和子さん、そして、事務局員の山添さんの6名でした。

山添さんは、前回お会いした時は事務局員ではなく、CTTのお客様でした。なんと、3団体の公演を2日ともご覧になり、公演に感動して??そのまま事務局員になられたのです。こんなひとは見たことがありません。
そのことにこんどは私たちが感動して、お疲れ会のゲストとしてお招きしました。なので、3団体のお疲れ会+山添さんの事務局員就任祝いの会でした。

思った以上に豪華な会でした。

忘年会?のようなものといえば、多少なりとも同じ系統の仲間が集まるものと思いますが、恐ろしく「グループ感のない」(大石さん談)6人でした。なので、みんな話すことが違います。たとえばこんな感じです。

久野 「大石さんって、キーワードいろいろありますね。「赤ちゃん」好きなんですか?」(大石さんの舞台には小道具に赤ちゃんの人形がでてきます。ほぼレギュラー格です。)

大石 「赤ちゃん。好きなんです。「赤」って色ですよ。なのに「ちゃん」つけたら人間になるんですよ。すごくないですか?」
※大石さんは、ものすご~く、おっとりした、シャイな感じの、でも、大きな目で相手をじっと見て、ぬるっとした感じでがんがん話します。

山添 「あおくんとおきいろちゃんって絵本が僕大好きだったんです。」
※山添さんはおだやかではきはきした口調で楽しそうに話します。

片桐 「私も大好きです。」

久野 「どんな話ですか?」

片桐 「どんな話かは覚えてないんです。」

山添  「あお君ときいろちゃんがいて、混ざったところが緑になるんです。で、どちらからも仲間に入れてもらえないという・・・」

出井 「村上春樹の、青がなくなる話、知ってますか?」

出井「世界から、青がなくなるんです。青って何なのか、どうしてなくなるのか、とか何も説明されないんです。」

山添 「村上春樹好きですけど、僕、短編はあまり読んでなくて・・」

久野 「私は長いのより短編のほうが好きです。長いのは最後まで気持ちが持たなくて・・・」

出井「ノルウェーの森の短い版てありますよね。」

大石 「蛍。」

久野 「蛍?納屋?あれ?」

大石 「蛍・納屋を焼く、です。」

久野 「あ。知ってます。」

出井 「短編、いいですよね。パン屋再襲撃とか・・」

久野「びんぼうなおばさんの話。とか、あと、芝生刈る話・・・」

田中 「芝生の話、いいですよね~。あれがいちばんいいです。」
※田中さんはハスキーでやわらかい声で、空気をふわっと切り分けるようにゆっくり、話します。

久野 「田中さんて、どんな本を読まれるんですか?」

田中 「****、とか、****とか(私が知らないので覚えられなかったのです。こんど大石さんに聞いて埋めます。大石さんは博学です。***の部分に大石さんは驚いていました。驚くような本だったのでしょう。)、スティーブンキングも好きですね。」

久野 「スティーブンキングがとった映画ありますよね。ホテルの・・」

田中 「シャイニング。」

久野 「私、あれ、キューブリックのと両方見たんですけど、キューブリックのほうがいいというのが理解できないんです。キューブリック版だと、原作の意味がわからなくなりませんか?」

田中 「キングの好きなひとは、あっちは評価してないと思いますよ。」

久野 「ほんとに?シャイニングといえばキューブリックってみんないうので、そういう人に初めてお会いしてうれしいです。」

田中 「お父さんと息子の関係とか、キューブリック版ででわからないですよね。」

久野 「あの。原稿を持ち出すところがいいのに。」

田中 「そう。」

久野 「(みんなに説明する)アルコホリックの本人もAC気味のお父さんがいて、小説家で、子供との関係もうまくいってなくて。だけど火事になってお父さんが死ぬとき、息子はいのいちばんにお父さんの原稿を火のなかから持ち出すんです。その場面がほんとによくて。」

田中 「そうそう。」

久野 「お父さんのこと死ぬまで何も理解できなかった息子が、お父さんがいちばん大事にしてるものは何だったのかということはちゃんとわかってたんですよ。」

               *

大石さんはおととい、一人でソロライブ(ひとり芝居??)をしたのですが、その舞台はお客様に参加を求めるタイプのもので、私はうっかり見に行ってしまって途中で「あ・・・つらいかな・・」と思ったのですが、不思議なほどつらくなかったです。こっち来ないで、という空気を少しでも出すと、大石さんはうまいことこっちを避けてくれるのです。あの空気の読み方は絶妙で、野生動物のようでした。なんの動物かわからないですが。人間関係に不自由なく生きてきたひとのものではないなと感じました。では、あの楽観的な世界観はどういうことなんだろう。ともかく、たしかに彼はこうやって生きてきたのだなと思いました。これからどうやって生きていくんだろう?とも思いました。

ああいう舞台にありがちな、迷惑極まりない無邪気な閉塞感を全く感じませんでした。不思議でした。
無理強いしないから、誰も舞台にわあっと寄って行ったりしません。
大石さんはひとりで舞台を続けていました。
そのことを話すと、大石さんは悲しそうに、
「あれは事故でした。」と言いました。
「みんな、わあっと寄ってきて楽しくなると思っていたんです。」

よってくるわけないだろう、と私は思いました。
たぶん、みんなそう思いました。

「大石さんの作品を見て、私は苦痛を感じないんです。ああいう形のものを見てこれまで何度も猛烈に嫌な気分になったのに。その原因が大石さんの才能なのか人柄なのか、わかりません。とにかく、わかりません。」と私はいいました。大石さんは口をUの形にくいっとあげて、目を大きく開いて微笑んでいました。
そして、
「あの、悪意のない、あれですね?」
と言いました。

そうです。あの、悪意のない、あれです。
やっぱり。人間関係に不自由なく生きてきたひとの言葉ではないなと感じました。


山添さんは、CTTの事務局員としてこれからやりたいことや、つくりてではない観客としての立場から見る舞台について熱意をこめて語ってくださいました。片桐さんとや山添さんは、テーブルの対角線で宇宙物理学の話とかしていました。物理学のことはわかりませんが、宇宙物理学の話をしているひとが両端にいる演劇の飲み会は楽しいと思いました。

大石さんと田中さんがフーコーの話を少ししていました。
理系の二人(山添さんと出井さん)はそれを聞いて、どこかの博物館にある振り子の話を普通にしていました。ひとりだけ学生さんの出井さんは、今日の話は私には難しいです、と言いながら、「私はボキャブラリーが少ないので難しい言葉を覚えるようにしてるんです。」といって、「フーコー」とか「メタ」とか、誰かが話した言葉を繰り返しつぶやいていました。
「哲学のひとって、<アプリオリに>とか平気で使いますよね。」と私が言ったら、出井さんが、「アプリオリって何ですか?」と聞いて、大石さんが「生まれる前から備わっているもので・・」とわかりやすく説明し、カントにとっての道徳律はアプリオリなもの云々という例をあげました。出井さんは、「アプリオリ」と繰り返しつぶやいていました。

          
             ****

全然違うお芝居を作った3組で突然決まったお疲れ会で、しかも12月の梅田なのにがらんと空いてるカレー屋さんで、インド人の店員さんに案内されて座った細長いテーブルは片側3人ずつと、なぜか必要以上に緊張感のあるレイアウトで・・・時間をかけてメニューを見て、ぱたんと閉じ、大石さんは「はい。僕は決まりました。」と微笑んでいる。え?ひとりずつなの?みんなどうするの?

山添さんが空気を見て、
「せっかくなんで、いろいろ頼んでシェアしませんか?」
と提案してくださり。

結局、カレーを二つ頼んで、各自がナンを1つずつ選びました。
私はふつうのナン。
大石さんはガーリックナン。
田中さんはチーズナン。
出井さんはバターナン。
山添さんは・・・長い名前のおいしそうなナン。

遅れて出井さんと片桐さんが参加・・・という具合にはじまったお疲れ会でしたが、演劇以外のところにむしろ共通の話題が多くて楽しかったです。
共通の話題でも言ってること全然ちがってたり、全然違う作品作ってるふたりが同じ小説家のファンだったり。長年の親友が同じ話しても面白くないかもしれませんが、こんなふうに知り合って、こんな風に話せるのってなんだか幸せです。

また改めて詳しく書きますが。

私はこの3組のお芝居がどれも好きでした。
正確にいうと、お芝居はよくわからない部分もあったのですが、
作っているひとたちがとても素敵に見えました。
異常にマイペースなひとたちでした。
そして、自分の作品と自分以外のひとたちのことを、とてもとても注意深く気に掛けるひとたちでした。

たった二日間仕込みからリハ、本番、バラシ、と一緒にいただけですが、創作のもっとも濃い時間を共有するのではなくただ単に真横で見ている関係でした。とても面白かった。誰もが常に何かを考えていて、自分に今できることはなにかと考えていて、時間がないので、考える端から選択して実行に移していく。私とは全く関係のないものをもっとも大事なものと考えてすべてをそれに注いでいるひとをただ単に横で見ているという貴重な経験をしました。私の見ている前で、私には何の関係もない大切なものが大切に大切にされて変化していきました。それは私には何の関係もない出来事なのでした。
片桐さんも、それにわくわくしていました。彼女は仕込みのときからそのことを繰り返しつぶやいていました。

図ったり調整したりする必要もないほど距離のあるものとすれ違う瞬間ってぞくぞくするほど幸せだったりします。

出井さんが、私に、
「久野さんが合評会で言ってた、大きな出会いをしたからと言って、ひとは別に変わらなくてもいいと思っている、という話が私はとても気になっています。」
と言いました。

そう、言いました。そんなことを。
ライトが眩しいのと、緊張していたのとでほとんど記憶がないのですが、
「月と出会った後、彼女にはどんな変化があったのかよくわからないのですが・・」というような質問があったので、それに答えたのです。

重要な出会いがあったからといって、人は変わらなくていいと私は思っています。かなりしっかりとそう思っています。そう思わない人にはあまり快くない作品を、おそらく作っています。誰かと誰かが出会った。そしてすれ違って別の方向へ歩いて行った。という物語が基本的には大好きです。出会ったくらいで変わりません。出会うたびに変わっていたら、出会うのが面倒になったり疲れたりするかもしれませんし、そもそも、前と後でみんなが変わってしまったら、いったい誰が誰に会ったのか誰にもわからなくなってしまうような気がします。変わらない方がいいと思ってるわけではありません。
出会うのは一瞬ですけど、会った、ということはずうっと続くことのような気がしています。だから、変わるのはいつでもいいんです。

月に会った日。もし彼女の中で何か変わったのだとしたら、それは食パン工場の話を聞いたことについての何かじゃないかと思います。それは月とは何も関係ないです。

その夜、月と会ったことでいつか彼女の中で何かが変わることがあるかもしれません。そしてそのときは、別の誰かに会っていたり、別の何かをしていたりするのだと思います。物語が生まれる時と完結する時は遠くにあっても全然かまわないと思うのです。遠ければ遠いほど、大きな物語になります。


          *******
なんの日記なのか、どころか、いつの日記なのかもわからなくなってきたので、この辺で終わります。

私は別に、この出会いによって「忘年会の好きなひと」に変わったわけではありません。来年はやっぱりまた参加しないだろうと思います。ひとはそんな簡単に変わりません。第一、これまで経験したことのないことを経験しているときって外側に目が向いてるときです。そんなとき、自分の内面が変わったかどうか、なんて、いちばんどうでもいいことのような気がします。

ひさしぶりに長い日記を書きました。
書いていて思い出したのですが、セキレイさんとヒヨの物語が途中でした。
続きを書かないと。


2011年12月12日 (月)

忘年会?


CTT大阪参加者のお疲れ会(忘年会?)をすることになりました。
前月出場したという以外に、なんの接点もない3組で。

演劇関係の忘年会に参加するのは初めての経験でどきどきしています。
昔、劇作家のTさんから、
「忘年会しますので~」
と電話があって、

「忘年会嫌いなんです。ごめんなさい。」とお断りしたら、

「えええええ?」とものすごく驚かれてしまいました。

彼女は集まりやパーティなどが好きで、段取りを整えるのもとても上手なひとでした。申し訳ないことをしました。若かったのかな。

今回は、なんと、(いつのまにか)幹事です。
楽しい会にしたいなと思っています。
いえ、きっとなるはずです。スペシャルゲストもおられますし。

忘年会、こんなに楽しみなのははじめてかも。
カレーを食べに行きます。

2011年11月20日 (日)

沈黙

黙るというのは、言葉だ。
最上級の言葉だ。

役者が、言葉を使って空気を制御してるかのように思える芝居がある。
そういうのを見ると、ぞくぞくする。
お芝居の醍醐味と思う。

彼らはいったい何をしてるんだ?とずっと不思議に思っていたけど、
今日、ふと気付いた。

台詞と台詞の間に「黙ってる」のだ。

問題なのは、台詞を話す時間じゃなくて、台詞を話さない時間だ。

言葉と言葉の間の時間。
言葉の途切れた瞬間。
たとえ一瞬でも、沈黙している時間は「何も言わない」時間じゃなくて、「黙ってる」時間だ。なにを黙ってるのか。なぜ黙ってるのか。いつまで黙ってるのか。どんな風に黙ってるのか。

黙ってる時間にどれだけのことをできるか、が勝敗を分けるのだと思う。

思うに至った理由がある。

2011年11月15日 (火)

人の話

このところ、役者さんとばかり話している。
出演者の片桐慎和子さんだけでなく、別の役者さんと話す機会も、
たまたまだけどなにかと多くて。

役者の友達が、面白そうな企画を立てていて。
その企画について、私は何も関係ないんだけど、
そのひとは友達でもあるので、ふんふんと話を聞いた。

聞くほどに、面白そうなので、つっこんでいろいろ聞いていたら、
すごく楽しかった。

もう、すっごく楽しかった。

自分が考えたことがない方向からものを考えるのはほんとに面白い。

私は役者ではないので、役者が企画した公演を主催することはあり得ない。公演しようと思うと、自分にできることから始めるしかない。
だからまず台本をつくる。その前に、どんな台本にしようか、考える。
この時点で、なにも手元に材料がないので、なんでもかんでも必要になる。
あればいいなと思うものと、あるかもしれないものと、ないと困るなというものと、なくてもいいなと思うものについて考える。

役者さんが企画する公演は、その順番が全然、違うのだ。
カルチャーショック。なんといっても、役者を探さなくてもいい。
このことがどれほどものすごいことなのか、なぜか彼らには伝わらない。
だって。役者が舞台に立てば、どんな形であれ、公演はできるわけですよ。
すごくないですか?

どんなことするの?
何がやりたいの?

と聞いたけど、「今考えてるところ」と、具体的に何も教えてくれないので、根掘り葉掘り質問してみた。質問すると答えてくれた。

「譲れないものは何?」
「役者が二人以上、舞台にいること。」

「それは、同時に?ばらばらでもいいの?」
「・・・・・同時に立たないって?」
「物語の中で出会わないとか、みんなおんなじ役をやるとか。」
「・・・・それは考えてなかったけど、嫌だなあ。」

「じゃあ、同時に二人以上が舞台に立って一緒にいるんですね。」
「そう。それは重要。」

「台詞は?」
「え?」
「台詞は必要ですか?」
「・・・・・・・・・・台詞は、必要。」
「どうして?」
「言葉で関係を作りたいから・・かな。」

「その台詞はアドリブでもいいの?」
「いや・・・・・・・台詞は自分の言葉ではないっていうことが大事。台本は要る。」

「では質問を変えます。台詞があって、二人以上が同時に舞台の上にいるなら、演劇じゃなくてもいいのですか?」
「・・・・・・・・・・・・・いいのかも。」
「いいの?」
「もしかしたら、飲み会とかでもいいのかも。」
「でも、アドリブはなし、と。台本創って稽古して飲み会する?」
「・え・・・・・・・・・・・」
「誰が何飲んで、どんな打ち明け話して、どこであてを追加して、だれの話が滑って、誰がつぶれて・・とか全部決まってる飲み会。」
「・・それは・・・・・・・・ありかも。」


では、飲み会のことも候補にいれつつ、もう少し質問を続けましょう。


関係ない私は、どんどん、勝手に話をすすめていく。
知りたいことは、ふたつ。

絶対に動かせないものは何?
動かせるものは何?


お芝居は、フィクションだけど、小説と違って物理的な制約が確実にある。
でも、映画なんかとは違って、物理的な制約は、やりかた次第でほとんどの場合、超えることもできる。なんでもやり方次第。できるかもしれないことは、じゃんじゃんやり方を考えて、最後に残ったどうしようもないものを、それがそうであるのが最高に素敵なように全体を構成する。それが楽しい。
演劇ってそれが楽しいんだと思ってる。

私は関係ないんだけど、もはや友達の話を聞いてるモードは飛んでしまい、誰の企画について話してるのかわからなくなってきた。(ごめんなさい。)

いろいろ考えてるところ、とそのひとが言うので、
じゃあ、とりあえず、今、

絶対に動かせないものはそれが固定していることが面白い方法を考えよう。
動かせるものは、それが流動的であることが面白い方法を考えよう。

と提案してみた。「ふうん。」と言ってそのひとは乗ってきた。

その後もこまかい質問を続け、

出演者二人は確定している。それは動かせない。
台本と台詞が必要。それも動かせない。
そして1回きりの祭ではなく、なんらかの継続的な上演を考えたい。これも、動かせない。
それ以外のことは、動かしても構わない。

との回答を得た。

じゃあ。
たとえばさ、

「二人の俳優は固定して、もうひとりの出演者を上演のたびに変えてみる、とかは?」

「上演するたびに、役を入れ替えてみるとかは?」

「同じ作品を定期的に同じ俳優で上演して、上演するたびに演出家をかえてみる、とかは?」

「同じストーリーで同じ舞台美術で、同じ小道具使って、同じ台詞なんかもあって、で、いろんな作家にその条件で書いてもらう、とかは?」

「おもいきり有名な古典を上演してみる、とかもありかも。」

「連ドラ形式で毎回、「つづく」ってなるやつをすごい長期間でちょっとずつ上演してみる、とか。」


他人の問題にちゃちゃを入れるのは無責任でとても楽しいです。

その役者さんは「ふんふん。」と聞いてくれてたけど、もしかしたら、
「いや、そういうことを言ってるんじゃなくて・・・」
とあきれて話をあわせてくれてたのかも、です。

でも。
考えてたら楽しくなってきて。
ひとの話だったのに。

でも、ひとの話からはじまる自分の話しってありますよね。
友達の恋愛相談に乗ってるうちに三角関係になって、横取りしてしまった、とか、友達のオーディションにつきあっていったらスカウトされてタレントになちゃった、とかってこんな感じなんかしら?(違うか。)


というわけで。もはや、私に関係ない彼らの企画のことではなく、自分に関係あることについて、あれこれ考えはじめてしまっている私です。

2010年12月31日 (金)

場所と空間

「場所」っていう言葉が大好き。
このあいだ、演劇をやっている友人と話していて、「場所」と「空間」は同じ意味なのか?という話になった。
私が二言目には「場所」「場所」というので、「もしかしてそれは、空間のこと?」と彼女は思ったのだそうだ。

「空間」のほうが、演劇用語的なのかなあ。
なぜだか私は「場所」って言いたくなるんだけど。
「空間」というのはなんだかよそよそしい感じがして。
「空間を占める」より、「場所に居る」ことの方が嬉しいような気がして。

10代のころ。
人間には重力と温度がある、ということが無性にうれしかった時期がある。

そういうことと関係あるんだろうか?

2009年12月 4日 (金)

「演劇は戦争に反対します」

こんな台詞をしばしば見かける時期があった。
今でも、見ようと思えば見えるのかもしれない。
私が見ようとしなくなっただけで。
初めて目にしたときの気持ちを忘れることができない。

数年前に書いた日記。
当時反戦演劇を企画していた友人に送ったメールの一部でもある。

当時うまく言葉にできなかったし、今でもやっぱりうまくいかない。
言葉にすると軽蔑されるようなことを、私はたぶん言っている。
人として、容認できないようなことを言っているのかもしれない。
こんなことを言っていると友達をなくす。
実際、なくした。痛かった。とても。


時間がたてば考えも変わるかと思ったけれど、変わる気配もないので、
改めて日記に掲載してみようかと、思った。

******************

イスラムはアメリカ的正義に反対し、
アメリカはテロに反対し、
そして、
演劇は戦争に反対する。

演劇は、何かに賛成したり反対したりしないものだと思っていた。
資格や条件を問わず、暗黙の前提なんかもなく、誰にでも開かれてるものと思っていた。

反論するためには、相手の言葉を学ぶのがマナーだと思う。
議論というのは、お互いが共通の言葉で語ることだから。

反戦というのはアンチである以上、議論だ。
だから、自分の言葉(演劇・音楽)を信じ、誇りを持ち、それを使って、その言葉を持たない相手と議論するべきだという考え方がとても恐い。
「私は日本人であることに誇りを持ち、美しい日本語であなたと議論したい」と、アメリカ人に議論をふっかけるのがおかしいように。
アメリカが、アメリカの文化と思想に誇りを持ち、アメリカの価値観
を信じてアラブを裁いたのと同じように。

イスラムはアメリカ的正義に反対し、
アメリカはテロに反対し、
そして、
演劇は戦争に反対する。

きっとみんな正義なのだ。
自分たちにしかわからない言葉で語られる正義とは何だろう?

私は戦争も反戦も怖い。
軍歌も反戦歌も怖い。
「世界はフセインに反対する」というブッシュさんのスローガンも、
「演劇は戦争に反対する」という演劇人の会のスローガンも怖い。
どこがちがうのかわからない。
なぜ、「わたしは」と言わないんだろう。

              *
 
混乱していてはいけないの?
これまでの言葉で説明できなかったことを表現する方法を混乱しながら探していくのでは間に合わないの?ひとつのスローガンのもとに敏速に結論をまとめてひとを集めるための手段として、それは必要なの?

私にはこんなことしか考えられない。
「現実に起きていることをちゃんと見ずに抽象論だけで考えるな。そんな風に作品を書くな。」と言われた。だけど私が命がけで立っている場所、見ているものは誰に断る必要もない、私の現実だ。私の命は私の現実を生きるためにある。

戦争について、何かを感じるひとはたくさん居ると思う。
反戦について、何かを感じる人もたくさんいると思う。
アメリカについて、政治について、文化について、いろんなことを感じる人がいると思う。
それぞれが、自分の実感にもとづいて活動すればいいと思う。

あんなたくさんの表現者がいっせいにおんなじ方向に刺激されるのは、それが「正しい」からなのか?

震災のときも聞いた。「現実」ということば。
「表現者として、現実に、行ってこの目でみなくてはいけないと思った。」
現実という言葉の意味がわからない。
実感するって、自分とその出来事との距離について正確に、目を凝らすことではないの?
現地に赴くこと=実感すること?

「表現者として、この戦争には反対しなくては。」

そうなのか?

反戦演劇ってなんだ?
真摯に自分の実感に基づいて作品を作った結果がたまたま世論の支持を得られることだってあるだろう。でも、本来作家がひとりで背負うべき責任を
誰からも指摘されずにすまされる異常な状況を警戒しても警戒しすぎることはない。


私は、自分が作品を見て感じるべきことを社会や作り手に決められるのは嫌だ。そういうことのために演劇を見に行くのは嫌だ。

 
               *

作品はひとを動かすことがある、と思っている。
だから、表現者はあきらめず、無力感を感じず、信念を持って作品を作り続けなくてはならない、という考え方にはおおいに共感する。

ひとつの表現が戦争を止めることはあり得ると思う。

悲しいことなのかすばらしいことなのかわからないけど、ひとつの作品が止めることができるのは、未来の戦争ではないかと思っている。極論すれば、すべての芸術家が「目の前の」できごとに対してのみ動くのであれば、その最も期待されるべき効用から遠ざかっていってしまうのではないかと・・・。

ひとつの作品は「期せずして」遠くの大きなものに働きかけることができる。目的を持ったものは、その目的に対しては有効だけれど、つまり即戦力があるけれど、芸術に期待されるものって即戦力だろうか?
目的を持たずに生まれてきたものだけが働きかけることのできるものがあるような気がしている。
 

世の中をふたつの価値観にわけて、「どっちが正しい?」という考え方が好きじゃないので、私が選べない方法を選択し、活動している人を批判する気持は全くないし、実際、その選択をしたひとの中には私が心から尊敬しているひともいれば、素晴らしいと思える作品を作っているひとが大勢いる。
できることならばそういうひとと同じところに立ちたいと思う。
だけど、自分自身の感情と責任感と意識に出来る限り正確に目を凝らしてみて、でてくる答は「反戦のために今すぐ立ち上がり、同じ表現手段を持つ仲間と連体し、なにかを表現することでそれをくいとめなくては」ということのど真ん中にはないような気がする。

いろんなことを考える。
世界中でデモ活動を行っているあんなにたくさんのひとたちの活動が何にも影響を与えないことなんてあり得るだろうか?あれはものすごいことなんじゃなかろうか?
人間は、まだまだ生き物として正しいし、
やるときはちゃんとやるんだ、すてたもんじゃないんだ。


しばらく、いろんなことを考えていようと思う。
うこれは非難されるべき態度かもしれない。ならば非難されようと思う。

非生産的な態度はたくさんのものを損なうだろう。
自分の存在の意味がわからなくなるだろう。

だけど、ものをつくるということは、目の前にあるものの向こうに何があるのか、ひとつでもたくさんたくさん見つけだして考えて、考えて、考えて・・・っすることだったんじゃないだろうかとも思うので。

2008年7月18日 (金)

時間の入れ物

いろんな種類の言葉があって、温度とか色とか形とか、硬さとか、大きさとか、振動とか。

演劇は、どうしても時間の言葉なのだと思う。

どんなに魅力的な空間や瞬間に満ちていても、演劇は時間の言葉なのだと思う。作品と出会ってから別れるまでに必ずタイムラグがあって、作品の側から見ると、はじまってから終わるまでの時間が演劇だ。

始まった瞬間に終わってしまう演劇というのは、たぶん、無い。
始まった瞬間に終わってしまう(伝わってしまう)彫刻や絵画はあっても。

時間のことを肯定的に考えられないときは、演劇が辛い。
演劇を無邪気に信頼できるとき、きっと、私は時間を信頼しているのだろうと思う。それって人生を肯定してるってことだろうかとも思ったりする。

あれ。てことは劇場と人間て似てるかも。
空間とみせかけて実は時間の入れ物だったりするところが。

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