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2002年5月 5日 (日)

風景はどこにあるのか

2s

「窓の外」の風景を写すのが好きで、旅行に行くといつも、ホテルの窓から写真を撮る。最近気づいたんだけれど、そこには必ず、窓枠が一緒に写っている。
どうやら私が写したいのは窓の「外」ではなく、「窓の外」らしい。


無意識にやっていたけど、私にとって、これはとっても重要なことだった。

<ことば>、とか<作品>とかいうものは、窓枠のようなものかもしれない。それを挟んで、そこにはいつも「ふたつの場所」が出現する。
「ここ」と「向こう」、「見る場所」と「見られる場所」、「わたし」と「世界」。
何気なくこんな風に言ってみながらも、これらの言葉が猛烈に誤解を招く言葉であることを意識せざるを得ない。異質な対象が共存するとき、ひとはしばしばそれらを「比較」しようとするからだ。比較され、差異を認識されることでしか、異質なもの同士は共存できないと考えるのだ。

そういう考え方が生産的なときもある。
「比較」することで、世界はいくつかのグループに分類することができるようになる。
「わたしたち」という概念も、「競争」という概念も、その副産物だと思う。

だけど、そういう風に考えなくてもいいときもある。

世界がひとつの窓枠によって完全にふたつに分けられる時,
「ふたつの場所」は、窓枠を挟むことによって断絶したりしない。
窓枠は、ふたつの場所を分断し、相互に不可知な別個の場所として遠ざけるためのものではなく、ふたつの異質な場所が同時に自らを保証する共通の輪郭線になる。互いに不可侵なまま極限まで遠ざけることで(!)ひとつになるのだ。「向こう」を見ている「ここ」は、「向こう」を見ることのできる唯一の場所として「向こう」と等価であり、輪郭線を共有する者として同一なのだ。
1本の線の「内側」と「外側」の差異を求めることに、どれほどの意味があるだろうか?
1本の線の上では、こちら側であることはすなわち向こう側である。

「私が私であること」で、「世界は世界になる」。
「ここがここであること」で、「向こうは向こうになる」。

その世界観には「わたしたち」という概念はない。
世界はいつも、「わたし」と「わたし以外のぜんぶ」に分けられる。
「完全に異質なふたつのもの」だけが、分類からも競争からも自由に共存することができる。「向こう」は「ここ」になるし、「ここ」は「向こう」になる。「わたし」は「世界」になるし、「世界」は「私」になる。私について限定することは世界を無制限に肯定することだし、世界を眺めることは私が存在するということだ。
「わからない」ということは世界を否定することではない。
何か(外側)について「わからない」ということはその何かでない何か(内側)について「わかる」ということであり、そこ(内側)から「わからないもの」(外側)のすべてを肯定するということなのだ。

******

風景は対象として向こう側に存在するのか、それを見ている「私」の中にあるのか・・・という問題は、未だ(というかたぶん永遠に)解決の着かない哲学の命題なんだろうけれど、わたしは個人的には後者のイメージを持っている。
誰かが何かを「素敵だな」と思いながら一緒にいるとき、その「素敵なもの」は、見ている方のひとのものなのだと思う。<そのひとの外部>に広がっているという点に於いて。
重要なのは内側ではなく外側なのだ。
「素敵なものを見ることのできる場所」に居たいと思う。「ここはどこなのか?」「わたしは誰なのか?」ではなく、「ここから何が見えるのか?」ということが気になる。「そのひとはどういうひとなのか」ということよりも、「そのひとには世界がどんな風に見えているのか」ということの方が気になる。

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