2017年9月11日 (月)

階史上はじめての2回公演。明日から神戸だ!

最近ついついツイッターに書くようになってしまって、こちらのブログがおろそかになっている。
これはまずい。

140字の文章しかかけなくなっては劇作家としての可能性が多きに狭まる。
実感としてはとても良い訓練になってるように思うんだけれども。

というわけで今後はもうちょとここにいろいろ書くようにしようと思う。(と敏腕制作のW旦那I氏よりダメ出しが…)
明日から神戸です。神戸ですごす一週間。

今年は匣の階なのです!

ツイッターはわりと息を吐くように呟いてるので、とりえずこちらを乞参照くださいませ。
http://twilog.org/kuno_nami

神戸で公演をします。わくわくしています。
内容なども随時、ご紹介していきますね。

皆様どうか。見に来てください。お待ちしています。

2017年1月11日 (水)

「風景はどこにあるのか」(点の階最後の稽古)

最後の稽古でした。

いろんなことを発見した稽古でした。
俳優についてというより、台本の内容について。

一見正反対に見える二つのものが実はひとつのものの両面であること。

これは、そういう物語だったのだと改めて思います。

15年くらい前の日記だけど、今も私は窓枠のことを考えてるみたいです。
盤は窓枠なんだなと。


「風景はどこにあるのか」

明日から劇場で仕込みです。

みんな忙しいと思うので、こっそり日記を書いてみました。

2015年5月21日 (木)

今年は2階建て

来年1月にRecycle缶の階の公演が決まり、現在、出演者と演出助手さんを募集しておりますが、

なんと今年はもうひとつ、公演が決まりました。

8月1日に富山県の利賀村でテネシーウイリアムズの「財産没収」を上演します。
利賀演劇人コンクールに参加するのです。

「演出家」のコンペはもちろん、「演出家」として参加するのは初めての経験で、
他の方の書かれた戯曲を上演するのも初めてで、海外戯曲も初めてで、利賀村に行くのも初めて…。何もかも新しい経験を、この年になってやってまいります。

私は「財産没収」を空の話だと思っているので、「空の階」という名前にしました。現在、参加者は、

演出:久野那美
出演:片桐慎和子(突劇金魚)、七井悠
舞台監督:脇田友
照明:根来直義
美術:濱田真輝
演出助手:浅田真那
です。
このチームに参加を希望してくれる舞台監督さんと演出助手さんを募集しています。ご興味持ってくださった方、詳しいお話をさせていただきますのでメールフォームよりご連絡くださいませ。


2014年9月28日 (日)

カラスが飛び込んできた日のこと~缶の階WSの前の話~

缶の階WSの前、会場に1時間早く入った私たちは打ち合わせをかねた雑談をしていた。
どういう流れからだったか、表題の話になった。
「日常の中の劇的な一瞬を切り取って描くのが演劇だ」という話。
K君が、以前本で読んだエピソードについて話してくれた。

小学校の教室を舞台にするとする。
1年365日のうちの大半は、何気なく過ぎていく日常だ。
でも、たとえば、授業中に窓からカラスが飛び込んできた日が一日、あったとする。その一日はクラスにとって劇的な一日だったはず。普段とは違う顔を見せる子がいたり、普段の教室ではおこらなかったできごとが起こったり、普段なら言わないような言葉を交わす子同士がいたり…。それはたしかにそのクラスが内包している物語なのだけど、普段の生活の中では見過ごされてしまうかすかなものが劇的な一瞬を切り取ることで形になって現れる。

演劇とはそういうもの。どの一瞬を切り取るかが作り手の腕なのだ。

というような感じの話。

「久野さんはそうじゃないんですか?」と聞かれて、戸惑った。

そのことに対して特に否定的な考えを持ってるわけじゃない。言ってることもわかるし、そうやって作ったものを批判するつもりもない。でも、なんだか私は腑に落ちない…。なんでだろう。

もし、教室にカラスが飛び込んできた日を題材にして演劇作品を創るのなら、わたしだったらどうするか…。

「私は、たぶん…その日の出来事をセリフや物語にして演劇作品にすることは、しないような気がする…。」

というとK君が、
「あ、カラスが飛び込んできた日の前を描いて、そして、その日は飛ばしてその後のクラスの様子を描くやり方ですね。チェーホフ的とか言われてるやつですか?」

チェーホフ…。

チェーホフさんのことはよく知らないのでそこについて何もコメントできないのが情けないのだけど、いや、そうじゃなくて、そういうことではなくて…

私が<それ>を創るのだったら、たぶん、そんな劇的な瞬間を思い返す誰かの物語にするだろうと思った。

ある日、ふとその日の(カラスが教室に飛び込んできた日の)ことを当時のクラスメイトの前で話題にする。卒業する時かもしれないし、卒業して何年もたったある日のことかもしれない。
あの日は楽しかったね。こんなことやこんなことがあったね。もし、あんなことがなければ〇〇さんとは友達になってなかったかもしれないね。

でも、思ってたような反応は誰からも帰ってこない。
他の誰もそのことを覚えていない。
そんな出来事はなかったという。飛び込んできたのは猫だったじゃないかという人もいる。当の〇〇さんも、自分たちは前の学年のときから仲良くしてたじゃないの、という。目の前に鮮やかによみがえる記憶を誰とも共有できずに戸惑う。

それだけじゃない。そこから始まったはずのあれこれがどれもほんとうはそこから始まったのではなかったとしたら、自分を構成している何もかもが根拠を失うような気がする。ひいては今自分が立っているこの場所、これから向かっていこうとしている先のことさえも後ろ盾をなくして宙に浮く。

もはや、実際にカラスが飛び込んできたのだったかどうかは知るすべがないし、そのこと自体はどうでもいいような気がする。自分はおそらく、たくさんの劇的な瞬間を経て生きてきたのだろう。そして、その劇的な瞬間の劇的さは、とても個人的なもので、自分以外の誰にとっても意味のない劇的さで、けれど自分はけっしてそう思わなかったからこそ、自分にとって劇的な瞬間でありえなのだろう。ということに思いを馳せて窓の外を見る。

Hさんが、「つまり、<劇的な一日>と規定されたところから始めるのでは違う気がする、ということですか?」と言った。

そうかもしれない。
私が描きたいのは、たぶん、たしかにそこにあったものではなく、
あったのかもしれないけどなかったのかもしれない何かなのだと思う。

それが一般に演劇的な考え方なのかどうかわからない。
違うのかもしれない。
わたしにとっての「劇」は、日常を淡く描くことでも<劇的>な一日を切り取ることでもなく、強いていうなら、あるような気がする何かを求めてひとりで彷徨い歩くようなことなのかもしれない。彷徨い歩いて探さないと(探したとしても)どこにあるのかわからない、そもそもあるのかどうかもわからないような、何か。

カラスのことを考えながらぼんやりしていると、そおっとドアが開いて、一人目の参加者の方が入ってこられた。

2014年9月19日 (金)

12月の缶の階公演のご案内

12月に大阪市内で劇場を舞台にしたお芝居の公演をします。

演劇をあまり見たことないお客様にもぜひ見て頂きたいと思って創りました。演劇や劇場をテーマにした作品です。劇場の舞台が舞台の「舞台編」と、客席が舞台の「客席編」の2つを一挙上演します。上演時間1時間です。
片方だけを見ることも両方見ることもできます。
土日月火の朝・昼・夜と公演があります。小劇場気分満載のウイングフィールドと座りやすい椅子席で初めてでも観劇し易い船場サザンシアターで続けて上演しますのでお好きな会場で見ていただけます。

出演者はどちらも二人。大阪、京都、東京で活躍中の30代、40代の舞台俳優です。劇作は私(久野那美)が担当しています。訳あって、14年ぶりの主催公演です。

演劇ってどんなことするの?俳優って?台本って?舞台スタッフって何するの?劇の登場人物は劇にとってどんな存在なの?…とかいうことを「へえ」と考えながら見ていただけるお芝居です。

10月より劇場での宣伝を始めます。
劇場へはあまり行かないという方に広くお知らせする方法がわからないのですが、そういう方にぜひ見ていただきたいお芝居です。公式ウェブサイトにて俳優やスタッフの紹介、稽古場日記や上演台本も公開しています。ご覧いただいてもし、ご興味持っていただけましたら、ぜひ、劇場へ公演を見にいらしてください。

公式ウェブサイトにてチケットを販売しております。http://p.tl/iCSV


また、観劇が初めてで不安な方、行こうか迷われている方、何でもご質問にお答えいたしますのでご遠慮なくメールでお問い合わせください→cannokai@gmail.com もちろんリプライいただいてもokです^_^;
たくさんの方と劇場でお会いできますように。

今回、毎回の席数がかなり少ないので、ご希望の日時が限定されている方、遠方から来られる方はどうぞお早目にお申込み下さいませ。

2014年8月13日 (水)

クチミミ#1 終了しました。

無事終了いたしました。
ありがとうございました。

今回はじめて、「タイトルをつけないまま公演する」という長年の夢を叶えることができました。
とりいそぎ、写真をいくつかUPします。

※3本立てです。
動画からの切り出しなのですが、他の方の演出した作品はうまく切り取れないので、とりあえず私のパートのぶんだけUPします。

Kuchimimi1


Kuchimimi2

Kuchimimi3


Kuchimimi4

Kuchimimi5


2014年1月 3日 (金)

洗濯物の分別の仕方について。

学生時代、「批評」(と呼ばれるもの)は(なぜだか)「一顧だに値しない廉価版の論理体系」であるかのように教わった。哲学科に在籍していたので、<アリストテレスから脈々と続く思想の流れや背景を知らずに狭い知識と感性の範囲で諸々論じることになんの価値があるのか(いや、無い)>いうことのようだった。

若い頃って、現代批評やら美術批評やらにちょっと興味あるし、共感した文章をがんがん引用して卒論を書いたら、<問題外>と問答無用で却下された。(哲学の文献から引用のない論文は無効」とか。)

そのままでは卒業できないので文献を集めて最初から全部書き直したんだけど、<哲学の知識なく論じられたものは個人の感想に過ぎない。個人の感想には意味がない>という考え方には納得しかねるとこっそり思った。「我こそは世の中の背景を知っている」と息巻く同じクラスの(偏見だけど特に男子)学生の言葉はどれも同じで魅力を感じられず、「意味がないのは<個人>ではなく<あなた>なのではありませんか?」と思っていた。統括するまで黙っているとか正確に調べて引用するとかいう才能のいる世界なのだと思った。意味はない、とは私は思わないけど、「それは哲学ではない」というならまあ、そうなんだろうと思った。で、哲学はやめた。

創作というのはその点すごく楽だった。引用しなくても怒られないところがとてもよかった。(なので、後に、戯曲に嘘八百書いた架空の本やら格言やらについて、「引用元が明記されていない」と注意されたことに心底驚いた。だまされた気分だった。)


以来、「すべてを統括的に把握できる知識のない者は語るな」という考え方は、根強くあるのは知ってるし、それが評価される世界があることも知ってるけど、私は横目で見てスルーすることにしている。単純に、みんなおんなじこと言うからいちいち聴く意味がないからだ。おなじ内容なら、淘汰された魅力的な批評家の本を読んだ方がいい。<正当な>意見を何度も聞くより正しいのも間違ってるのもいろいろ聞く方が楽しい。

面白いのは、私の記憶の中で「問題外」と却下されていた「批評」(と呼ばれるもの)も、また自らを世の中の背景や変遷を統括的に語れる指標だと認識していることだった。そして、それ以外のものを「一顧だに値しないと却下」することだった。「芸術批評の流れを知らずに個人の感想を述べることなど無意味である」と断言しつつ、「自分には哲学の知識は全くない」と同時に言うひとの話を聞いて「おお。」と思った

みんなそうなのかもしれない。魚に詳しいけど洗濯物に疎い人、家事全般を体系立てて語れるけど哲学の知識のないひと、古今東西の哲学の知識はあるけど芸術全般に興味のないひと、芸術批評を体系立てて語れるけど野鳥のことを何も知らないひと…。みんながそれぞれ、「我こそは世界の全体像を把握している」と思いながらそうでないひとの話を却下してるのだとしたら…^^;
世界はなんて立体的にできているのか…。

     ****

これは、あれだ。洗濯物の話と同じだ。

小学生の頃、お昼のラジオで、主婦が料理やら家事やらのやり方についてあれこれ意見を戦わせるコーナーがあった。大人になったら賢い主婦になろうと思っていた私は、その奥様番組を熱心に聴いていた

その日のテーマは「洗濯物の分別」についてだった。「洗濯物を分類せずにぜんぶ一緒に洗うなどあり得ない」というのが、番組にはがきを寄せた主婦たちの意見だった。その点ではみな、一致していたような気がする。
ただ、ある人は「上に着るものと下着とは一緒に洗えない。絶対に分けて洗わなければ」と言い、あるひとは「色物と白いものは絶対に分けなければならない」といい、あるひとは「外で汚れるものと食卓なとで清潔に使いたいものとは一緒に洗うわけにはいかない」といい、…もっといろいろあったけど、とにかく皆、<絶対に守らなければならないその分け方>が違うのだった。

色物と白い物を分ける人は上着と下着を分けて洗わないわけだし、上着と下着を分けるひとは外のものと中の物の区別には関心がないわけだし、外と中でわけるひとは色物かどうかは気にしないということで…。

最後まで聞いて、小学五年生だった私は、

「洗濯物は分けなくていい」という結論に至った。

実際、洗濯物を分けずに洗う大人になってしまったのだけれど、今のところ特に困ったことは起こってない。それが道理だからなのか、洗濯機の性能がよくなったからなのかはわからないけど。

なので。

「価値観の違いなんてきれい事だ。それは知識の有無に過ぎない」という意見を聞くと、私はいつも洗濯物のことを思うのだ。
そして、受理されなかった卒論のことをちょっとだけ思い出すのだ。

関係ないかもしれないけど。なんか、関係あるような気がして。

2013年7月22日 (月)

【クチミミ稽古日記・2日目】間でバランスをとってはいけない

稽古2日目。

それに先だって、台本の改訂をしました。
先日の稽古でわかった一番重要なこと。
読み方のせいか、文章のせいか、………長い。長すぎる。

読み方は工夫してみるとして、それにしてもやっぱり言葉に無駄が多い。

文章の質にあった長さってあると思っているので、必要な長さを削って無理に短くするのは反対だけど、私の文章は長いと碌なことがないので、削れる限り削ることにしています。なので、毎回、稽古のたびに台本はどんどん薄くなります。そもそも、最初に全体を決めてから適切に書き始めて無駄なく書き終わる、という技能がないので、とにかく書いてからいらないところを削らないと、いらないところの方が多い状態になってしまうのです。

なので、稽古の前にせっせと分量を削減し、出演者に送りました。
ついでに本番を見据えて、縦書きにしました。

稽古までまだ少し時間があったので、「演出プラン」を考えることにしました。

前回の稽古の際に、
「今回、どんなことをやってみたいか」という話を出演者と二人でしていて、
その中で、

・ひとり音楽劇にする。
というのがあったのですが、それについて真剣に考えてみました。

話し合いの時には、
・読み手が楽器を携えて、台詞の合間に演奏する。

という案があったのですが、具体的に検討してみるとものすごく無理があることがわかってきました。問題は、本と台詞です。

まず、手軽に演奏できて雰囲気のある楽器~オカリナとかリコーダーとかハーモニカ~は、演奏している間、本を読めない、という点で却下されました。
それなら、手だけで演奏できるキーボードとか木琴とかはどうかと考えたのですが、ずっと<本を持っている>という朗読の壁の前に、やはり却下されました。結果的に「ひとりで朗読しながら演奏する」というのは相当工夫しないと難しいということがわかり、断念したのですが、でも、これは今後何らかの形で実現させたいと思いました。

※注 つまり、今回は楽器を演奏することはありません。


そうこうしているうちに、稽古の時間になりました。

先日できなかったプロローグの部分の稽古から始めました。
上空から物語がふわっと降りてきて、役者さんを通して客席に抜けていくような感じにしたくて、出演者の片桐さんにいろいろと無理を言いました。
最近、たくさんの舞台に客演してぐぐっと実力をつけた彼女は、私が、
「こんな感じにしたいんです」と云うと、
「はい。」と云って、いろいろバリエーションを工夫して見せてくれました。
彼女と一緒にお芝居を創るのは4回目ですが、毎回、前回まではなかった新しい仕方で関わることができるのがとても面白いです。
役者さんも変わっていく。私も変わらねば。と改めて感じました。


この日のいちばんの発見は、「リズムをとるための間はニュアンスを吹きとばしてしまう」ということでした。
台本を短くしたにもかかわらず規定時間をかなりオーバーする始末で、これはもしや読み方の問題ではないのだろうか?という話になったのです。

私の文章の癖なのだと思いますが、電車のガタンゴトンくらいのリズムで一定の波ができてしまって、読むのは気持ちよく読めるみたいなのですが、間延びして眠くなるのです。そして長い。そして、先日の稽古日誌の言葉で言うと、「物語のコスプレ」になってしまって意味が分りにくいのです。

「一定の間隔で間をとると、長いし眠いし意味がわからないので、とにかくその間を詰めることを考えましょう。」
と私は云いました。
片桐さんは、「はい。」と云って、もう一度読んでくれました。

不思議なほど、さっきと同じでした。

「詰まってないですね。」と私が言うと、
「難しいですね。」

私は、コスプレ向きの台本に責任をとるため、間を詰めるべき文字の間に「ツメ」印を入れていきました。片桐さんはそれをじっと見ていました。

印を入れた本を持って、もう一度読んでもらいました。
最初からかなり意識してくれたためか、今度はかなりうまくいきました。
時間もかなり短縮できました。

同時に。もうひとつ、大きな変化に気づきました。

間を空けることでバランスをとっていた言葉は、その間を詰めるとバランスを崩して倒れそうになります。倒れてしまっては読めないので、読むときに無意識に、新しい方法でバランスをとろうとするのです。その結果、言葉に強弱や緩急や音の変化が現れてきました。間をとる可能性が高いのはだいたい助詞の前後ですから、助詞の読み方が断然変化します。なんというか、無彩色だった「てにおは」に、色がつく感じ。そして、それに引っ張られるように、助詞の前後の言葉のアクセントや強弱や音の長さが微妙に変化して、さっきまではなかった「ニュアンス」が加わっていたのです。

これは感動的な発見でした。早速役者さんに伝えました。
片桐さんは、
「へ~え。」と云いました。

読んでもらう度に、最初のバージョンとのニュアンスの差はますます大きくなっていきました。そして長さも短くなっていきました。
<間をあけることでバランスをとると、バランスをとるために必要な音のニュアンスが吹き飛んでしまうのだ>ということを確信しました。


その後、プロローグをおおまかに仕上げ、今度は最初から最後まで通して読んでもらいました。

が。

…………長い。

短くした台詞をさらに、短く刈り込んでいきました。
カットしてしまえば最初からなかったかのように見える台詞ばかりで、自分の文章の冗長さが情けなくなりました。

そしてもう一度。

本を縦書きにしたことが功を奏したのか、先日よりもぐっと立体的で開放的な朗読になっていました。
「縦書き。いいですね。読みやすいし。」と、片桐さんも満足していました。
そして、たぶん、家で特訓してきてくれたのだと思いますが、問題だった学者の台詞が、ずいぶん脱コスプレして聞きやすくなっていました。

その後、今一度、音楽を入れることについて話し合いをしました。
入れるならここかな?というところをいくつか挙げて、前後を読んでもらいながら検討しました。何度も、ためしてみました。

最終的に、「この物語には音楽を入れるタイミングがない。」という結論になりました。理由はいろいろあるのですが、要するに入れるより入れない方が聞きやすい、ということです。ただ一カ所だけ。入れるとしたらここだね、という箇所があったのですが、入れる音に条件がありました。そういう音楽が見つかったら検討する。見つからなかったら断念する、ということで落ち着きました。

そんな感じで、2日目の稽古も無事終了しました。(実際はもっといろいろダメ出しをしていますよ)

稽古場日記というのは、すごくむずかしいです。
ほぼ実況で書くことになりますから、結論から逆算して情報を取捨選択することができないのです。そういうわけで、このように、たいへん混沌として読みにくい文章になってしまいます。しかも、混乱してる間に混乱してることを書くので、文章が恐ろしく冗長で切れが悪いのです。
でも、ドキュメンタリーを結末から逆算して創る、というのもおかしな話なので、多少無様ではありますが、できるだけもれなく記録していくことにしました。先日の日記を読んで、「はじめて演劇をした高校生のようだ」という評を下さった方がおられましたが、まあ、そういうのがあってもいいじゃないかと
続けることにしました。今回、3本立てということもあり、1作品あたりの稽古の回数が少ないので、連載というよりは読み切りのような日記になると思います。

よろしければ最後までおつきあい下さい。
そして、公演をぜひ、見にいらして下さいませ。

ふう。やっと書き終わった。

★クチミミ公式公演案内とご予約受付は:→こちらhttp://kmm.kiwamari.org/

2013年7月19日 (金)

【クチミミ稽古日記~1日目~】朗読のコスプレ?

朗読公演の稽古をしています。

本を読むひとのお芝居は作ったことがあるけど、舞台の上でほんとうに本を読むのは初めてで、何から何まで試行錯誤の4時間。

朗読家のひとにとっては当たり前で考えるまでもないことなのかもしれないけど、やることすべてが「ほお。」「なるほど」「へえ」「そんなっ?」の私たちは、本の持ち方と座り方・立ち方だけで稽古の半分くらいを使って試行錯誤していたのでした。

もうひとつ、改めて考えたのが、<言葉に感情を込めるということ>について。演劇にも台詞はありますから、そんなことは当然、これまでにも考えたことがあったはずなのに。言葉だけの世界になると、俄然クローズアップされてくるのです。

「声を出して物語を読む」という行為には子供のころからなじみがあるので、「あんな感じね」とイメージしやすいのかなと思います。「舞台に立って台詞を言う」ということはそれに比べると一般に馴染みのない行いなので、ちょっとハードルがあって、ハードルのところで多少考えるために「朗読」ほど、「あんな感じね」感少ないのかもしれません。

読んで内容を理解する前から共有できるような<あんな感じね感>が、内容を際立させるはずはなく、そんな架空の<朗読幻想>に沿って気持ちよく読んでしまうと、うっかりすると<朗読のコスプレ>のようなものになりかねない。<読んでいる>ことはすごくわかるけど、何を読んでるのかいまいちわからない朗読になってしまう。

そういうことに気づかせてくれた稽古でした。

まずは手当たり次第、ためしてみるかと思って(やるのは出演者ですが)ちょこちょこ注文をつけて試してもらっていたのですが、
「内緒話バーション」のとき、学者のセリフがとても聞きやすかったので、

※注 この物語には、学者の卵と瀕死の兎が出てきます。

「何をしました?」と出演者の片桐慎和子さんに、聞いてみました。
「何を?…えっと…感情を込めることを考えてませんでした。」

ほお。

そういえば、読んでもらっていると、兎の台詞のほうが断然意味がわかりやすい。この兎は何を考えてるのかわかりにくいので、既存の感情をこめようがないのです。そもそも瀕死の兎がしゃべるときの感情のこめ方を誰も知らないので、こめようがないのです。
なので、言葉の連なりを手掛かりに発音するしかないのです。

一方、学者のほうはなまじっか日本語を話す人間で、瀕死でもないので、うっかりすると<感情を込めて台詞を読もうと>してしまいます。知らないひとの知らない感情を容易に込められると思ってしまう時点で、実はどんな感情なのかあまり考えてないということなのかもしれません。
どうにも、学者の台詞がわかりにくかった理由はもしや<感情を込めて>読もうとしていたことに原因があるのか…???

前回の(道の階の)ときと同様、出演者がひとりなので、稽古場には私と出演者のふたりだけです。ふたりで一生懸命考えてみました。

その結果、分ったこと。

読む人が自分の知ってる世界の<感情をこめて>読んでしまうと、登場人物が物語の中で何を考えてるのか、わからなくなってしまう。読む人の感情を登場人物の言葉を通して表現しても、それは物語を理解する助けにならないのです。読む人は物語の中にいる人ではないからです。

さて。
考えるのは一緒にできても、演出する係は私なので、ダメ出しは私が出演者に言葉で伝えなくてはなりません。出演者も、演出家がダメ出しするのを待っています。

※ダメ出しって言葉はあんまり好きじゃないのです。目的は要望や意見を伝えることであって、ダメなところだけ指摘するわけじゃないと思うので。もっと前向きな表現はないでしょうか。


混乱の末に、こんな風に(ダメ出し)してみました。

「可能な限り、分りやすく読もうと思わないで台詞を読んでもらえますか?」
「…今のだとわかりやすかったですか?」
「わかりにくかったです。このままだと、とてもわかりにくい。」
「???」

ひどい会話になりました。
自分の表現力の乏しさが悲しい。そして申し訳ない。ごめんなさい。

でも、出演者の片桐慎和子さんは、平然と根気強く話を聞いてくれました。
その後、逆に「地の文」こそ「どこの誰でもない人」として客観的に読むよりも、私たちに理解できる感情を込めて読む方がわかりやすくなるのではないか、という話になり、<地の文の人の感情><兎の感情><学者の感情>について考えながら1回読んだらタイムアップで稽古が終わってしまいました。


おそろしく要領の悪い稽古場で、もしかしたら稽古とは言えないようなことをやっているのかもしれないのですが、でも、これ、楽しいんですよ。かなり。
稽古場に行く前と帰るときで、台本の見え方が全然違う。
登場人物の見え方も全然違う。
稽古する度、作品の全体像も目指すべき地点も変わっていく。
それまで考えたこともなかったことがたくさん、稽古場で共有されていく。
棚を作るのと同じで、これまではたしかに見えてなかったはずのものが、もはや最初から当然そこにあったものにしか見えなくなっていく…

その状況を許してくれる出演者に恵まれてきたことに心から感謝しています。

だって、言い方を変えれば、稽古に先立って具体的なビジョンがなく、全体像も、見えていて当たり前のことも見えないままに進めていくってことですから。いや、私もさすがにこの年でそれはまずい、と思って、最近、機会あれば別の演出家の方の稽古を見せてもらいにせっせと稽古場通いしているのです。
だから、そのうちもうちょっと段取りよくなるはずとは思うのですが…。

でも、だからこそ、今は誰も知らないけれどきっとあるはずの「完成形」を掘り当てるべく、あきらめずに精進しなくてはと思うのです。なにが何でも見つけ出さねばと思うのです。

……そんな感じで、クチミミ稽古、1日目は終了したのでした。
帰ったらぐったり疲れて、焦点が定まらない感じで、そしてなぜかわからないのですがひどい筋肉痛でした。


稽古のときにうまく言葉にできなかったことを、帰ってから日記を書きながら考えてみました。
要するに、

「知らないことを知っているかのようにさらっと説明すると余計に分りにくくなる」
というシンプルな問題なんだなと思ったのです。この物語の中にしかない<理由>や、この物語の中の登場人物にしかない<感情>が、物語の中にちゃんと見えるようにしたい。そのためにはどうすればいいのかを考えて工夫しないといけないということなんだと…。

翌日、出演者の片桐慎和子さんに、この日記に書いたことを一生懸命伝えたら、ふむふむと聴いてくれて、

「演劇も同じですね。恐ろしいことですね。」
と云われました。たしかに。


そして、
はっ。と気づいたのです。

今回クチミミの久野パートで読む「王国」という本の中に、

王国のことを誰もが知っていましたが、王国については誰も何も知りませんでした。

という一文があるのですが、つまり、この王国って、もしや…!

役者さんに、
「あの物語のことが、ちょっとわかったような気がする。私たちが今やろうとしてるのは、つまり、『王国』の研究なんじゃないかと…」
と云いましたら、

※注 「王国」は、幻の「王国」のことを研究している学者の卵の物語なのです。


「へえ~。そうなんだ~。」

と感嘆の返事が。

全体像にはまだ遠いですが、目指すべき方向が少しずつ、見えてきたような気がしました。
私パートの稽古はあと4日です。
着々とはいきませんが、よいものを見て頂けるよう、地道にがんばります。


ちなみに、「王国」の中にはこんな一文もあります。

ここから先はもう、何を頼るわけにもいきません。出会った人に尋ね、出くわした出来事をよりどころにして進んでみるしかないのです。

2013年7月13日 (土)

完全に分るまで次に進まない。こと。

この間見たお芝居に、「完全に分るまで次に進まないでじっくり学ぶ。」という方法で36年かけて高校2年の課程まで進んだ男性が出てきた。
物語の主旨はどうかわからないけど、

「うんうん。本当はそれが正しい学び方だよね」

という風には私は受け取れなかった。
その考え方はとても傲慢で悲しいと思った。

<何をどう学んでも、自分には常に「知らないこと」があるのだ。世界は自分の知識より絶対に大きいのだ>という感覚が身につかないまま大人になる怖さ…。

そして、それは絶望的に不幸なことだと思ったのだ。

2013年7月 3日 (水)

クチミミ公演のご案内

ことばのことを考えています。
ことばだけでは創れないけれど、ことばを無視しても創れないので、ことばを素敵に出し入れする方法を考えています。

台本→演出家→語り手→聞き手
 
と、ことばが渡るとき、いったいどこで誰が何をしているのか?
色々と、わからないことがあるのです。そこで。

小さなカフェで小さなお話しの会をします。わからない時は、まずはシンプルに小さく始めてみるのがいいかと思うのです。

三人がそれぞれ短いお話を用意して、ひとりの女優に託してみます。
20分が3つで合計1時間程度の小さな催しです。
ことばを、読んだり読まなかったり語ったり語らなかったり話したり話さなかったり演じたり演じなかったりします。

吹田、関大前にあるカフェdropさんが場所を提供して下さいました。

あとは、お話を聞く人を待つばかり…

*******************:

というわけで、お話の会をします。
4人の共同プロデュースです。
なかなか見られないメンバー構成だと思います。
いろいろありまして、突然沸いて出た企画で、現在、必死にチラシやwebを作っています。その間にもお問い合わせがあったりするので、とりあえず、こちらに詳細を書きます。


出演:片桐 慎和子

構成・演出:1. 久野那美(缶の階) 2. 山本握微(劇団乾杯) 3. 筒井潤(dracom)

開演日時:2013年 8月3日 (土)11時 /18時 ・ 8月4日 (日)11時 /18時
※計4回公演 / 開場は各開演の30分前より
※上演時間は約1時間強(3作品×20分)

場所:カフェ drop ( ドロップ )---大阪府吹田市山手町3-7-5 利導荘1F

交通:阪急千里線「関大前駅」
※南改札口出て左手側(東側)出口へ地上を出て左手(北側)に見えます
※梅田より約20分。河原町より約50分

料金:500円(前売・当日共通)
※各回20席限定。 お席に限りがありますので、早めのご予約をお勧めします。

500円は、クチミミ公演の入場料金です。(飲食代は含まれていません。)飲食ご希望の方は、営業時間内に各自カフェメニューよりご注文&お支払い願います。カフェの営業は朝の公演終了後~夕方の公演開場の間(12:30~17:00)ですので、公演時間は注文できないのですが、よろしければ、ぜひ、朝の公演のあとや、夕方の公演の前にご利用いただければと思います。
(ケーキが美味しいです。たくさんの種類の紅茶があります。)

以上、簡単ですが、ご案内まで。

ご予約受け付けております。

★クチミミ公式公演案内とご予約受付は:→こちらhttp://kmm.kiwamari.org/


これから準備を始めます。
他の作演出のひとと一緒になにかやるのは、実は、はじめてなのです…。

2013年4月25日 (木)

物語至上主義?

物語至上主義者。なのかもしれない。私は。

小説でも詩でも演劇でも歌でも絵でも彫刻でもダンスでもゆるキャラでも。
物語が見えると楽しくなる。
物語が見えないと飽きてしまう。
物語を舐めてる感じのはいらいらいする。

物語というのは別に、言語じゃなくても全然いいし、音じゃなくてもいいし、見えなくてもいいし、動かなくてもいい。ひとつにまとまってなっくてもいい。正義じゃなくてもいいし、不思議でも不思議じゃなくてもいい。

ひとつの作品の中に、物語がたくさん、たくさん、詰まってるものが好き。

2013年4月22日 (月)

漠然と缶の階について。(ご案内と募集)


来年。
2014年9月~12月の間に、缶の階という集団で演劇の公演をします。
劇場を舞台にしたお芝居の二本立て公演です。
劇作と演出を私が担当します。

公演をするきっかけにはいろいろあると思うのですが、今回は、役者さんから漠然と持ちかけられた話に私が漠然と乗ってみた、というのがきっかけのひとつです。

でも、完全に漠然としていたのは「乗ってみようかな?」と思っていた間だけで、乗った瞬間にはもう、真の「漠然」ではなくなっていました。台本ができたらさらに漠然度は低くなり、別のひとに声をかけたりしているうちにもっと低くなり、今ではもう、最初からこうなることに決まっていたのだとしか思えなくなってきています。

何か始めるときって、そういうものなのかもしれません。

漠然は、×漠然 ×漠然×漠然、と乗算するたび数値が下がるのです。ひとりで漠然と考えていたときには誰の頭の中にもなかったことが、ひとが集まるとどんどん具体的になっていきます。(どこからやってくるんでしょう?)
そういうわけで、現在、さらに漠然度をさげるために話し合いとメンバーの募集をしています。

縁のあったひとと、漠然としたものを持ち寄って、ちょっとずつ、不器用に、じっくりのんびり創りたいと思っています。だから公演は来年の後半です。

出演者2名(男性)と制作担当者を含む、あらゆるものを募集中です。

具体的にならないと他のひとを誘いにくいけど、誘った人の漠然と私たちの漠然とを混ぜてそこから具体的にしたいなというのもあるし、難しいです。これは、深刻なジレンマです。

そういうわけで、まだまだ漠然としたお知らせですみませんが、興味のある方おられましたら、ぜひ、お問い合わせください。
考えようによっては、漠然としている時こそ好きなように漠然度を下げるチャンスです。

歌を歌いましょうとか、紅白に分けて競い合いましょう(何を?)とか、自分が主演してあげましょうとか、こことかここで公演しましょうとか、今ならなんでも検討の余地があります。お互いの漠然がうまくかみ合えば、なんでもあり得ます。

検討させたいことや一緒に漠然としたいことがあるひとはぜひ、お声かけ下さい。ご質問などありましたらぜひ、お問い合わせください。


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そんなんで公演なんかできるのか?
と思われるかもしれませんが、案外、できるものです。
才能、技術、経験、というのは公演を成立させるのにすごく重要な要素ですが、最強のアイテムは「縁」なのだと私は思っています。

舞台編の台本は読んでいただけます。(そのうちHPにUPします。)
客席編は完成し次第、追加告知いたします。


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缶の階vol.1公演
2014年後半 会場:大阪市内他の予定

舞台編:「ヒーロー2」出演:太田宏(青年団/カムヰヤッセン)・男優1名(未定)
客席編:「(タイトル未定)」出演予定:片桐慎和子・男優1名(未定)

劇作・演出 久野那美

他未定

未定のメンバー(スタッフ、キャスト)募集中
お問い合わせ先→→http://homepage2.nifty.com/floor/library/mailform.html


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それから。
この企画を漠然ともちかけてくれた最初の一人は太田宏さんといいます。過去に、箱の階、船の階、で一緒に公演した役者さんです。

彼の出演するお芝居が今週から東京・福岡であります。
40代の俳優がティーンエイジャーを演じる3時間半の一人芝居!?
なのだそうです。意味がわからなくてものすごく気になるので、それと、初演時の舞台写真が素敵なので、私は福岡へ見に行こうと思ってます。


ご興味ある方はぜひ。

青年団リンク RoMT 第4回公演
『ここからは山がみえる』YOU CAN SEE THE HILLS
【戯曲】マシュー・ダンスター 【翻訳】近藤 強
【演出】田野邦彦
【出演】太田 宏
【公演日程】
2013年4月24日(水)~5月6日(月・祝)東京・アトリエ春風舎
2013年5月30日(木)~6月1日(土)福岡・konya-gallery(第7回福岡演劇フェスティバル 関連企画)
→RoMTのwebサイト(公演情報はこちらで確認下さい)

2013年4月 7日 (日)

そんな花のこと

その島には、一年に一度、7日だけ咲く白い花がある。

花がいつ開くのか、ということは島の人々にとってとても重要な関心事で、
誰もが皆、その日をずっと前から楽しみに待っている
1年にたった1度のその時期には木の下に集まって、
おいしいものを食べ、美味しいお酒を飲み、仲間と語り合う。
7日間を花の下ですごすのだ。

予想より早かったり遅かったりしながらある日、白い花は静かに開く。
次から次からあふれてくる圧倒的な白に包まれて、世界は日常からふんわりと切り分けられる。

真っ白な公園や土手や道は他の日とは何もかもが違う。
花が散るまで、そんな日が続く。

けれど。

小さな花は、雨が降るとあっけなく散ってしまう。
その花がいつ散るかと云うことも重要な問題で、人々は寂しさと諦めをもって
その日を迎える。
花が散ると、最初から何もなかったかのように、人々も散っていく。

暦にはないけれど、この島ではいちばん重要な、一年の区切りなのだ。

花が散ると、白い花の木はあっという間に緑の葉に覆われる。
島を覆い尽くした白い花のことは、人々の記憶の中からすっかり消えてしまう。
次の年の同じ季節に白いつぼみが膨らむまで、誰も思い出さない。
幻の中で咲く花なのだ。

そんな花が、あるのだという。

2012年12月11日 (火)

ちゃぶだいとしろくま

舞台にちゃぶ台があると、嫌な予感がするな・・と思ってた時期がある。
ちゃぶだいが「暗黙の了解」の象徴のように見えたからだ。

舞台中央にちゃぶだい。
誰かが座っている。テレビを見てたり。
「新聞とって。」とか誰かが誰かに言う。
「おはよう。」誰かが入ってくる。

これだけで、このひとたちが同じ家に住んでいて、
おそらく血縁関係があって、今は朝で、みんなが起きてきて、
ここは居間で、食事が始まろうとしていて、毎日同じような時間を
すごしている・・・というようなことがわかることになっている。
誰も何も説明しなくても。

これがちゃぶ台の力だ。

舞台にちゃぶだいがあるのに、以上のことが分からなかったら、おそらく
このあとに続く諸々の出来事についていくことができない。

これがちゃぶだいの力であることは、このちゃぶ台をたとえばしろくまに替えてみれば
すぐにわかる。

舞台中央にしろくま。
誰かが座っている。
この時点ですでに、すわっているのか、じっとしているのか、しゃがんでいるのか、
隠れているのか、なんらかの説明が必要になる。

しろくまの横にテレビがあることにも説明がいる。
そもそも、それがテレビであることがわかるために何らかの説明がいる。
しろくまの隣にある四角い箱がニュースやドラマを放送していること、
に対するなんらかの説明がいる。

しろくまの居るこの場所はどこなのか、
最初に座っているひとは誰で、「おはよう」と入ってきたひととどんな関係があるのか。

登場人物の間に暗黙の了解があるのは仕方がない。そのひとたちは、舞台が始まる前からそこでそうやって生きてるのだから。

でも、客席と舞台との間に暗黙の了解があることに納得がいかない。
しかもそれは、「ちゃぶだい」的価値観を共有している人だけがもつことのできる了解なのだ。


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暗黙の了解、について、たまたま昨日、人と話す機会があって。
ふと思い出したので書いてみました。ちゃぶだいのこと。

2012年10月28日 (日)

バターを落とすことの悲しみについて。たぶん。

ドロップドバター

という言葉があるのかないのか・・・・。

落としたバターにまつわる定理。

インターネットの相談掲示板で、男性が相談事を書いているのを目にしました。
夕食の前に冷蔵庫からバターを取り出そうとした奥さまが手を滑らせて、バターを塊ごと床に逆さに落としてしまったのだそうです。奥さまは床でぐしゃっとつぶれているバターの塊を見て号泣ししまい、何を云っても泣きやまず、どうしたのかと聞いてもただ、「わからない・・」とつぶやくばかり・・・。彼女の気持ちがわかるひといますか
私はどうすればよかったのでしょう?
というような内容でした。

バターを塊ごと床に?真っ逆さまに?

読んでいるだけで鳥肌が立ってきて、ぞくぞくしました。
うわ。それは悲しいだろう。号泣もするだろう。その気持ちはそうそうおさまらないだろう。理由なんか聞かれても答えられないだろう。
それはそうだろう。かわいそうに・・・。


当然、「バターを落とすということはそういうことではありませんか。」
という回答が寄せられるものと思っていました。が、先を読んで呆然としました。

その相談には、読んだ人からのコメントがたくさん、つけられていました。
主に既婚の女性からでした。
「バターが原因のはずがないじゃないですか。ずっとため込んでいたものがあったんですよ。」
「鈍いですね。奥さまがストレスをためているのに気付かなかったのですか?」
「バターはきっかけに過ぎません。原因は別のところに。」
「奥さまの状態は普通ではありません。もしかして妊娠初期ではないですか?」
などなど。

ひとつとして、
「バターを落とすというのはそういうことではありませんか。」
という回答がないことに動揺しました。

自分だったらどうだろうと考えてみました。
そばに誰かいたら、号泣、は、しないかもしれない。
何かしている最中だったり、お客様がいたり、急いでいたりしたら、とりあえず感情は横に避けて、バターを片づけるだろう。でも、生きた心地が戻ってくるには少なくとも数時間の時間が必要だろう。心臓はドキドキしてとまらず、世界が停止したかのような緊張感と世の中を理解するのに使っていたあらゆる規則や規律が吹っ飛んでしまった恐怖感、
、とりとめのなさ、何がなんだかわからない悲しみ、は号泣するのでなければ振り払うのに相当な工夫と労力がいるような気がしました。

もし、自分の家の中で、そこにいるのが自分と夫だけで、特に急いで何かをしなければならない状況でないならば、手っ取り早い方法として号泣するか茫然自失になって完全に静止するか、どちらかだろうと思いました。

そして、それは、あくまで「バターを落とした」ことに対する感情であって、
そのほかのことに対する感情ではないのです。

その質問者の男性は、仕方なく、バターを拾って手際よく掃除をしたのだそうです。
泣いている奥さまは放っておいて。

彼女にとって、それはこの上なくありがたい対応だったろうなと私は思いました。

バターを落として号泣しているときに一番してほしいことは、そのバターを拾って片づけてもらうことです。叱られたり「早く掃除しなさい」と言われても当然の場面ですが、
もしそんなときにすぐさま黙ってバターを拾って掃除してくれる男性がいたら、それはもう結婚してしまうだろうと思います。この奥様はとても幸せだなと思いました。

彼女の内面を想像してストレスを推し量ることには私はあまり意味を感じません。
彼女が号泣したのは、バターを塊ごと床に落としたからです。
あの質感と重量がコントロール不能のところへふいに移動して次の瞬間、床にべちっと落ちるんです。自分で制御できない重力の移動と言うのはそれだけで猛烈な恐怖感をあおります。(ジェットコースターで落下するときのあの感じとかもそうだと思います。)

そして、そのちょっとした生理的な隙をつかれて思わぬ事故が起きてしまったときのとりかえしのつかなさといったら・・・・。
居心地の悪さ、気持ち悪さ。焦りと後悔。
しかも目の前に歴然とある、不始末の結果は自分がなんとかしなければ、消えることな永遠に目の前にあり続けるのです。内面にのパニックが目に見えるところにあふれだしたかのようなどうしようもなさ。
ちょっとの間ちょっと何かを我慢すれば起こらなかったはずなのに、そのちょっとがうまくいかなかったために引き起こしてしまった目の前の出来事の後始末をつけなければならないむなしさ。やりきれなさ。
今思いつく、いちばん近い現象は、「失禁した」ときのそれではないかと思います。

2,3日、落としたバターのことを考えながら過ごし、もう一度その掲示板を見てみました。コメントの数はどんどん増えているようでした。そしてその多くが、奥さんの心身の健康を心配するものと男性の鈍さを指摘するものでした。

はっとしました。

もしかして・・・・。

バターを落とすということは実はそういうことではないのかもしれない、と思ったのです。

バターを落として号泣する人間は実際、病んでいる。
という可能性に初めて、思い当たったのです。

そうすると。
上に私が延々乏しい語彙を総動員して説明しようとしたことは、バターを落とす
ことの悲しみついてではなく、バターを落として号泣している人間の病んだ思考についてだということになります。私は自分の情緒不安定について実証していたことになります。
どうしたものか。

考えてみましたがいい案が浮かびません。

そういうわけで、このことについてこれ以上考えるのはやめることにしました。
誰かに話して共感を求めることも、とりあえずやめることにしました。

だけど、書いてしまったものをどうしたものかと考えた時、こちらはとりあえず日記にUPしておこうと普通に思いました。

今回に限らず。日記というのは、いえ、言葉というものは総じてそういうものであるのじゃないかと思ったからです。そこで説明されていることが、果たして、「バターを落とすことの悲しみについて」なのか、「バターを落とすことの悲しみを正当化しようとする人間の歪み」についてなのか、誰にもわかりません。分らなくても読めるのです。
ということは、両方書いてあることになります。

日記というのは、きっと、そういうものなんです。
そしてそれはおそらく、日記だけではなく・・・・。

2012年10月 1日 (月)

ビーム君のビーム


私の部屋に、小さいロボットの人形があります。
ロボット好きのひとからプレゼントにいただいたものです。
パソコンをたたいていて、ふと顔をあげると目が合います。

目が合ったとき、彼はいつもこちらに向けてビームしています。
なので、ビーム君と呼んでいます。

ビーム君はいつも熱心に仕事をしています。
こちらに向かって放出されるビームが目に見えるようです。

が、彼が何のために、何に向かってビームを発しているのか、誰にもわからないのです。彼のビームには破壊力が感じられませんので、なんらかの平和目的の光線なのだと思うのですが、特に何かの役に立つようにも感じられません。しかも、目的の場所(というものがあるならば)に届いているようにも見えないのです。15㎝くらいで力尽きて落下しているような気がします。

実際に何もできないだけでなく、何かできるようにすら全く見えないロボットというのは、なんともいえない違和感があります。ロボットというのは、「何かの役に立つ」ためにああいう形をしているのだと思うからです。

ビーム君は、ちゃんと、ロボットに見えます。
でも、いわゆるロボットの役目を果たしているようにはけっして見えないのです。目が合うと、つい考えてしまいます。
「彼はいったい、何をするロボットなんだろう。」
そういう意味では、違和感というより存在感があると言えます。

では、いわゆるロボットの役割とは何なのかと考えてみると、これがよくわからないのです。わかるはずがありません。私はロボットを作ったこともないし、ロボットを使ったこともないし、ロボットを使いたいと思ったことさえないからです。
それなのにきっと心のどこでロボットに何かを期待しているのです。
私だけでなく、誰もがロボットに対して何かを期待しているような気がします。

いったい何を?

きっと、人間にはできないあらゆることを。
ロボットというのは、人間にはできないことを叶えてくれるものの象徴なのだと思います。

実用的なロボットはある特定の何かを叶えるために作られているので、実際に「何か」を叶える役割をはたすのですが、ビーム君のような非実用的なロボットは、誰の何を叶えればいいのかそもそも明白ではないため、「何かを叶えてくれる」という希望だけを象徴してビームしているのです。

なんの役に立つのかさっぱりわからないビームを一生懸命放っているビーム君を見ると、ふっと身体の力が抜けます。話しかけたくなったりもします。
でも、忙しそうなので邪魔しないようにしています。

何の役にもたってないんじゃないかと思うと、慰めたくなったりもします。
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でも、一生懸命なので、邪魔しないようにしています。

ですけども。

ビーム君のビームの先にあるもののことを考えるとちょっと楽しい気持ちになります。誰も思いつかないような目的を叶えるためのビームがあって、それを一生懸命放出しているロボットがいる、ということは、なんとも心強く、愉快なことのような気がするのです。

2012年9月 5日 (水)

卒業?

怖い夢の定番で、繰り返し、繰り返し、見るシリーズがある。

「勉強しないと卒業できない」という夢だ。

こんなバカみたいな設定なのに、夢の中の私はとても苦しんでいて、ひどくうなされて目が覚める。
状況はその時々でちょっとずつ違うんだけど、共通するのは、「これまでの不勉強をとりかえすべく猛烈に勉強しないと卒業することができなくて、この場所にいつまでもいなくてはならない」というシチュエーション。どこを卒業できないのかはいつも曖昧ではっきりしない。

不思議なのは卒業できないのがいつも「未来形」であることだ。

「勉強しなかったので卒業できなかった」というストーリーであることは決してなく、
かならず、「勉強しないので卒業できないだろう」という設定なのだ。

この時制には深い意味があるような気がする。

絶体絶命なわけではなく、がんばればなんとかなる余地が残されているのに、夢の中の私はあらかじめ絶望するのだ。そんな暇があったらがんばれ、まだ間にあう、と夢を見ていないときの私は思うんだけど、この夢を何度見ても、そういう風にはならないのだ。


目が覚めるといつも、もうどこも卒業しなくていい自分の立場に心の底から幸せを感じる。そしてなんども確認する。
ほんとうに、私は、もう、卒業しなくてもいいんだよね?と。

「まだチャンスがある」、という状況なら私はがんばってなんとかしようとする方だと思うんだけど、なぜだかこの夢だけは絶対にそういうこちにはならないのだ。私はそこまで勉強するのが嫌いなのかと自分でもあきれる。

もしかしたら。一度でもがんばって勉強して夢の中の卒業試験に合格することができたらこの夢を見なくなるのかもしれない。
はたしてそんな日は来るのか?
こんな気の長いプロジェクト、誰が企画したんだ。

そして時々ふと思う。
ほんとうに、ほんとうに、私はもう、卒業しなくてもいいんだろうか?

2012年9月 4日 (火)

20パーセント増量。

コメンタリーとか、アフタートークとかどうも苦手で。
小説のあとがきで、作品の成立について作者がいろいろ書いてるのも苦手。
映画もお芝居も小説も好きなんだけど、本編と別におまけがついてると、
どっちに集中すればいいのかわからなくなって、見るのが面倒になってしまう。DVDの特典映像とかも、あんまり見ない。

作者の意図とか制作過程とか、背景とか、基本的には興味がない。
すごく興味をひかれるものも中にはあるけど、それは興味をひかれる理由がきっと、その作品か創り手の中にあるのだ。
そのときは、見た後に自分でいろいろ探すのが楽しい。最初から、「知りたいでしょ?この作品をより深く楽しむには・・・」と言われるとげんなりする。

その作品だけ、一人で「勝手に」見たり聞いたりしたいのだ。
正解があるような感じがするとものすごく嫌なのだ。
私が正しく鑑賞しないと誰かに迷惑がかかりますか?と思う。
かからないものを「作品」というんでしょと思ってしまう。

作家本人が作品と並行して語る言葉というのがどうにもしっくりこない。
言いたいことがあるなら全部入れたものを創ればいいじゃないかと思ってしまう。全部入ってないのなら、じゃあ、その作品は何なんだ?と思ってしまう。その解説付きで見る人となしで見る人との関係はどうなるのだ?と思ってしまう。

この気持は、20パーセント増量のクリープの詰め替え袋を買ってしまったときの納得いかなさに少し似ている。多い方がいいかもしれないけど、でも、もとのびんには100パーセントしか入らないのだから、20パーセントは袋に入れたまま輪ゴムでとめて冷蔵庫にしまわなくてはいけないのだ。これが意外と面倒くさい。クリ―プも情報も、多い方がお得だと云われればそんな気もするけど、なんか納得いかない気持でいつも輪ゴムを探すのだ。
全然違うような気もするけど、他に適切なたとえが浮かばないので。

私は昔からそう思ってるんだけど、あまり多数派の意見ではないみたいで、コメンタリーもアフタートークも作家本人の解説も、ますます充実してきているような気がする。

単に嗜好の問題なのかもしれない。

美術館や博物館で、展示物の横にある白い四角いボードを読む人はしっかり読むし、最近では音声ガイドのサービスを利用するひともいる。
私はほとんど読まないし聞かない。

学ぶのが嫌いなだけかもしれない。

公演のパンフレットに作演出家の言葉、とか書くのも嫌で、書いたことがない。それくらいはサービスで書けばと言われるけど、クリープの袋に輪ゴムをかけている自分のことを思い浮かべるとできなくなる。それがすごく良いことだとは思わないけど、なんだかしっくりこなくて。

でも、このあいだもっとすごい人に会った。
公演終了後に観客と演者が作品を批評し合う場を設けている企画に参加したお客さん。「合評会は失礼します。歌声喫茶みたいで苦手なので。ひとりで酒を飲みながら舞台のことを思い出したいと思います。」と言ってさくっと帰って行かれた。「おお。」と思った。


楽しめるコンテンツが増えるのは悪いことじゃない。
創り手や紹介者が、作品について論理的に説明する言葉を持っていることも、悪いことでじゃないと思う。その方が、背景を異にする社会に紹介するのが容易になると思うから。ただ、なんだかうまく言えない理由でこの流行についていけない人ももしかしたらいるかもしれなくて、そういうひとが「自分だけじゃないんだ」と思ってほっとするといいなと思って書いてみた。なんかうまくまとまらないんだけど。

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スサンネ・ビア というデンマーク出身の女性の映画監督がいる。こっくりした作品を創る人で、映像もとても奇麗で私は彼女の作品がとても好きだった。手に入る限り全部見て、でもそんなにたくさんないのですぐ見終わってしまって、あるとき、ふとDVDの付録についていた監督インタビューを見てしまった。後悔した。なんて感じの悪い、なんてつまらないことばかり話すひとなんだと思った。見てる間に腹が立ってきた。映画はこんなに素敵なのに。あのインタビューは少なくとも、制作サイドでカットするべきだったんじゃないかと思った。できないんだろうか。監督だから?監督ってなんなんだ?監督というのは映画の「中」を創るひとなんじゃないのか。それ以来、いっそう用心深くなった。面白かったときほど、付録に用心してしまう。

信じられないほどつまらなかったときの方が逆に、ちょっと付録の方も見てみようかなと思ったりする。解説やインタビューも同じような感じだと、なるほどと腑に落ちてすっきりしたりするので。

困るのは、解説やインタビューは抜群に面白いのに作品に全く魅力を感じない組み合わせに出会ったとき。見てはいけないものを見てしまったような、どうしたらいいのかわからない気持になる。

2012年9月 3日 (月)

洋服屋さんの謎

街の中や外を散歩するのも、お店を見て回るのも好きなんだけど、
でもだいたいのものを私は通販で買う。
特に洋服はほとんど。
お店のひとと話すのが苦手なのだ。

お店が仕入れて並べてくれているものを買うかどうかもわからないのに見せてもらってるんだから、最低限、礼儀も会話も必要だと思ってる。
でも、あれは会話なんだろうか?

何を疎通したくて話しかけるのかさっぱりわからない。

「こちら、色違いになります」
「こちら、ブラックになります。」
「こちら、スカートになります。」

何を答えればいいのだろう。

「そうでしょうね。」と言えばいいのか。、
「ええっ?!ほんとうですか?」と驚けばいいのか。
「なりませんね。」と否定してみればいいのか。

どう答えても不条理劇になる。

それに。必需品じゃないものを、楽しみで眺めて、選んでるときって、リラックスモードで放心状態になりませんか?(私だけ?)
突然話しかけられると突然引き戻されたような(どこからだろう?)
びっくりして、息が止まりそうになる。すごく健康に悪い。
いつどこから話しかけられるかと思うとドキドキしてゆっくりできないのです。

CDの試聴してるときとか、書店で本を選んでるときとかに
「こちら、AKBの新曲になります。」とか
「こちら、上巻になります。」とか
「この作者、人気なんです~。私も別のシリーズを持ってるんですよっ!」
とか、後ろから声かけないと思うんです。

なぜ洋服屋さんの台詞はあんなに変なんでしょう。

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